またしても秀吉を許した信長


秀吉が信長を殺さなければならなくなった動機は、逆も真なるか的に発想して秀吉が信長に殺されそうになったパターンに当て嵌まる事実を探せばよい。桶狭間合戦のとき以外にもあるはずである。果たしてあった。



          

 天正五(一五七七)年九月五日、秀吉、松永久秀・久通父子の謀反に呼応して毛利が攻勢に出るのを警戒して勝家の許可なく長浜に帰陣。七日、秀長ら姫路に帰陣。



 同年十月十日、松永父子、自決。信長、石山本願寺と和睦。



          

 信長にとって松永父子の謀反は寝耳に水であった。しかし、それ以上に心外だったのが、松永父子謀反の報を受けて、秀吉が軍令に背いて取った九月五日の行動である。前野家文書の現代語訳『武功夜話・信長編』(加来耕三訳)は秀吉の行動を次のように弁明している。



 



《加州を退陣したのは北国探題の柴田修理殿が、御縁家のみを先手となされ、我ら主人筑前様を後陣にする依怙贔屓ばかりで、ために我らも加州まで出陣しながら鉄砲を二発も撃つことさえできなかった。



加州一揆も織田勢五万の大軍をもって、大聖寺まで追い崩したが、御大将柴田修理殿はさらに上杉方と一戦を交えるべくお考え。このおり、手前主人筑前様は、たとえ上杉二万の軍勢を催そうとも、やがて寒気到来すれば積雪のため合戦にもならず、見渡すかぎり稲田は黄金の波、したがって刈り入れのためにも早々と軍を引き、帰国するであろう。また、和州表の松永弾正の謀反についても、摂津表の在番に御譜代の衆が一人もいないため、信長公も、さぞかしご苦慮のことと察せられる。したがって、危急のときなれば軍勢を二つに分け、即刻、畿内へ返すよう御手配なさるよう意を尽くして言上されたが、柴田殿が聞き入れられぬため、筑前様はお届けもせずに帰陣された次第。とはいえ、軍法に違背したことは、その罪科はまぬかれない》



いかにもその通り。



秀吉のいうところの毛利対策は石山本願寺との和睦で足りる。ましてや軍令違反は死罪と決まっている。一時は秀吉の心中を疑って切腹させるつもりだった信長だが、羽柴秀長の弁明と前田利家の奥方まつの嘆願を容れ、免罪の条件として早急な中国平定を命じた。



《毀誉褒貶は世の常なれども、筑前様が臆病だとか卑怯の振る舞いと謗られるのは、我ら家来としてもはなはだ口悔しいので、何卒ご賢察願い上げ奉ると必死の思いで依頼したのであった》



依頼したのは信長の命で秀吉の与力となっていた浅野弥兵衛長政(当時は長吉)で、相手は織田信忠であった。



《中将様は聞き分けなされると、いまは危急のおりなれば松永を退治後に、機をみてとりなすほどに、明日は安土に参る所存なれば、即刻、立ち帰って軍旅をととのえ、我が幕下に参陣せよとのお言葉であった。弥兵衛殿は急ぎ長浜に立ち帰ると、この次第を筑前様にご報告申し上げたのであった。ところが、筑前様の首衆が播州へ発向して早十余日になるのに、いまだ吉報がないため、さすがの御大将筑前様も、いささか窶れ、頬は削げ、髪は茫々、和州信貴山への出陣はいたましいものであった》



秀吉は謹慎中だから代理が岐阜城の信忠のもとへ嘆願に行ったわけだが、代理が浅野長政だったことに意味がある。浅野長政は浅野長勝の婿養子で、秀吉の妻於寧はやはり長勝の養女である。織田信忠は信長の嫡男。前田まつが秀吉の命乞いに動いたのは、当時はまだ前田まつのほうが秀吉の妻於寧よりも信長に対して説得力を持つ立場だったためと思われる。秀吉の異父弟小一郎秀長が秀吉の命乞いに動いた事情は前述の桶狭間合戦前後のシチュエーションを参照していただければ自然と理解されよう。



現代語訳『武功夜話・信長編』は次の消息を伝える。



《羽柴筑前様が長浜において蟄居なされているところへ、御舎弟小一郎様はじめ前野将右衛門、蜂須賀小六、竹中半兵衛らが、播州表から帰着し、その首尾について報告された。なかでも、小寺官兵衛の嫡子松寿丸を伴い帰ったことは、筑前様をたいそう喜ばせた。



この日、直ちに松寿丸を連れて安土城へ参り、林佐渡殿を介して信長公に加州表の件について、重々お詫び申し上げ、お許しを求めることとなった。筑前様は軍法を曲げたについては十分覚悟のうえで平伏しておられたが、信長公からは暫しの間、なんらのお言葉もなかった。城中の控えの間にいた浅野弥兵衛殿、蜂小殿、前将殿、竹半殿らは、どのような結果になるのか、かたずをのんで見守っていたが、浅野弥兵衛殿などは心配のあまり、三度までも小用に立つありさまであった。



蜂須賀彦右衛門にいたっては襖の陰で耳をそばだてながら、



「各々方、もはや覚悟なされるがよい。容易に、この城を出ることもできぬやも知れない。そのおりには私は斬り死にを覚悟している。たとえ身に帯びているのが匕首一本であろうとも、やすやすは討たれぬ」



と懐中の短刀を撫しながら、油断なく辺りを見回すしまつ。小一郎殿はとみれば、無言のまま白扇を開いて懐に風を入れ、静かに庭先に咲く菊の花をみているだけ。静寂の時がながれ、馥郁たる菊の香りが屋内に満ちていた。しばらくして竹中半兵衛が口を開いた。



「筑前様は、このたび、播州という虎穴に入り、虎児を得られたのである。それでお咎めを蒙るのであれば、我らも一蓮托生である。そう思えば何も恐れることもなければ、憂いもないではないか。もっとも法度を犯すことは重罪ではあるが、播州で成果を挙げたのであり、これをもって奢ることがなければ、また、その意は通じるものだ。仁義があれば必ず通じよう」



この竹半の一言により、緊張していた気持ちもいくらか和んだようであった。二時間あまり経ったころ、筑前様が笑みをたたえながら御前を下がってこられた。つまり、内府公が、このたびの件をお許しくだされたのである。加えて播州一国については、筑前様の思うようにせよとの仰せつけでもあったとか。控えていた面々もお叱りを覚悟していたものの、有り難きお言葉によって主従は手を取り合って喜び合い、安土城を下ったという次第であった》



羽柴小一郎秀長、浅野長政、蜂須賀小六、前野将右衛門長康、竹中半兵衛重治ら秀吉の身を案ずる側近の心理が描き分けられている。『前野家文書』が前野将右衛門の子孫が書いたものだとしても、現場にいた人間、前将でなければ伝えられない光景であることは疑う余地がない。この中で一際光彩を放つのが小一郎秀長の沈着冷静な姿であろう。性分もあるのだろうが、その姿から秀長しか持たない情報を感得せずにはいられない。すなわち、信長が秀吉を殺さない理由とでもいうような……。



さて。



信長が秀吉を殺さない理由という仮説の検証がここで必要になってくるのだが、当座、ここでは次の事実のみ告げるにとどめたい。



関東平定、奥州平定、北国平定、四国平定、中国平定、九州平定の中で信長が掲げた「天下布武」中の最難関が「中国平定」であることはだれしもが認めることである。強調しておきたいのは攻略の難度もさることながら、中国平定の重要性である。関東と奥州の平定について信長は織田・徳川・北条三国同盟で決着を図る考えだった。北国平定の対戦相手は上杉だけである。それに比べて中国平定は四国平定、九州平定と連動していて、『武功夜話』が述べる竹中半兵衛の中国平定に対する認識が信長の認識であり、秀吉の認識でもあり、秀長をはじめとする側近たちの認識でもあったはずである。



だからこそ、信長はみずから秀吉のまわりに配した小一郎秀長、浅野長政、前野将右衛門、蜂須賀小六、竹中半兵衛らで構成する特殊な軍団にその大任を託したのであろうし、秀吉主従は確信犯的に軍法違反を犯して毛利の反攻に備えたわけである。



今、秀吉を殺したら、軍団は崩壊し、中国平定をする者がいなくなってしまうだろう。
 以上の理由で、またしても信長は秀吉を許した


(つづく) 




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