これまでの日本史は「俺が、俺が」と個人が勝手に解釈して書き散らかす時代でした。
そこで、次の九つのセンスとノウハウを駆使して解析する試みを提案します。
◎疑問感受性
(解析の切り口を発見するのに不可欠の疑問を感じ取るセンス)
◎見識物差し
(歴史上の人物の見識レベルで判断する洞察力)
◎モンタージュ法
(踏まえるべき事実群から法則性を持つパターンを選り分けてクロス分析するセンス)
◎因数分解解析法
(発言や手紙文を要素別に分解して思いもよらない背景を描き出すノウハウ)
◎セグメント抽出法
(踏まえるべき事実をセグメントして多重解析により思いもよらない背景を描き出すノウハウ)
◎パターン物差し
(パターンを比較して潜在状況を読み切るセンス)
◎時系列物差し
(踏まえるべき事実を時系列的に相関させて一連の動きを筋道立てて掘り起こすセンス)
◎仮説検証法
(方程式は未知数Xを含む等式ですが、仮説Xを用いて真相の近似値を導く手段です。ただし、仮説Xを立てないと解析が一歩も進まないという場合に限って用いる最後の手段です)
◎ジグソーパズル式多重モンタージュ
(最後に仮説検証法も含めて八つのコツから導かれた解析結果を矛盾なく組み合わせて真相に迫る近似相を再構築します)
説明するよりも実例を用いたほうがわかりが早いと思います。これから更新するたびに実例を展開して解析法を演習していきます。
本講座と出会ったのがきっかけで自力で解析できるようになり最高の知的エンターテイメントを手に入れていただきたいと願っております。
記録が少なく既成の解釈や推測まじりの史料から得た事実だけでは解析の精度が低くなりがちなので、極力、埋もれた事実の発掘に努め、解析の精度を高めていく必要があります。
もう、これ以上は不可能というところまで、本講座に終わりはありません。
前置きはそれぐらいにして、どのようにして埋もれた事実を発掘していくのか、実例を用いて説明していきたいと思います。
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本能寺の変、秀吉はクロかシロか
本講座の特徴は「有罪判決が下るまでは何人も無罪と推定される」という刑事裁判の原則を援用していることである。世の中の通念が本能寺の変において「秀吉はクロ」と認められるまで、「秀吉クロ」の証拠を積み上げていかなければならない。いわゆるジグソーパズルのコマが出揃ってぴったり嵌まった状態になるまで有効なコマを探さなければならない。
本能寺の変といえば日本史ドラマのひのき舞台の主人公を交代させるほどの大事件であるから、実行犯である明智光秀が家康の饗応役を交代させられたことに恨みを抱いたといった単一の動機であるはずがない。また、犯行により最も利益を得る者を疑えという犯罪捜査でいうところの「利益」を動機解析の切り口にすると、真っ黒けになって捜査線上に浮上してくるのが秀吉である。現行犯逮捕的に明知光秀という真犯人が存在する以上、よしや秀吉が「シロ」であるとしても、嫌疑が晴れるまでは秀吉を捜査線上のど真ん中に据えざるを得ない。
逆も真なるか式にいうと、現行犯逮捕的真犯人の光秀には四国国分案の変更という単一の動機しかない。事件のスケールに照らすとき、どうしても動機に疑問点が残ってしまう。結果から類推するだけでなく、白紙でランダム、曖昧、手探りの状態で考えても、光秀が計画的に信長暗殺を企てた証拠がない。
信長暗殺のトラップ・パターンとして本能寺の変と類似のシチュエーションが天正九年の四国長宗我部攻めなのであるが、このとき、光秀が信長暗殺を画策した形跡はない。しかし、つくられたシチュエーションの発案者は紛れもなく秀吉だった。
駄目なら仕方がない、俺が誘い出すしかないか。
と、いうようなことで、本能寺の変の仕掛けになったのだとしたら、秀吉はかなり執拗に信長を殺そうとしていたことになる。自分は手を汚さないで不倶戴天のライバルの手を利用するとなればそれこそ一石二鳥である。こうなると、秀吉が殺したかった相手は信長か光秀かが問題になるのだが、光秀が秀吉に憎しみを抱く原因は四国国分案くらいしか見当たらないから、光秀は秀吉にそのように仕向けられ道具に使われたと見るのが妥当であろう。桶狭間前後のシチュエーションを考えれば相手は信長と最初からわかっている。
やっつけなければ殺られる。
秀吉にとって信長という主君はそういう相手だった。
武士道は江戸時代の規範だが、戦国時代にも武者道という規範が存在した。主君の馬前に死ぬことが最高な名誉である代わりに、主君を選ぶ名誉が与えられていた。自分で選んだ主君だから馬前で死ねるのである。
主君を選ぶことが公然と認められたとなると、当然、主替えという行為が頻繁に行われる。藤堂高虎が代表例である。浅井長政に始まり、阿閉貞征、磯野員昌、織田信澄、豊臣秀長、豊臣秀保、豊臣秀吉、家康という具合で、それを恥じるどころか、「武士たるもの七たび主君を変えねば武士とはいえぬ」と自慢にしてさえいる。主君にふさわしい人物はすべて他界したのが原因で致仕するに至ったのだから自慢して当然と思う。
百姓出身の秀吉にはもともと武者道的な素養がない。
小一郎(秀長)を立てていればうまくいくから、うまくいっている間は従っていくが、万一のときは万一だ。
こんな感覚だったに違いない。
秀吉が信長に対して最初から忠誠心を持たなかったことは桶狭間合戦のとき清洲城に残ったことからもわかるのであるが、探ればもっとあるはずだから当面は仮説の扱いにしておいてせいぜい証拠固めに努めたい。
