秀吉が信長にカリスマ性を感じなかった理由
本能寺事変が秀吉のシチュエーション犯罪だとすると、当然、状況証拠しかないわけである。そのために状況証拠を可能なかぎり積み重ねる努力をしてきた。そして、ここに至って再び効果的な状況証拠が得られた。
桶狭間の勝利が信長によって計算しつくされたもので、仮に秀吉だけがそれに気づいていたとすると、他の家臣みたいに信長に対してカリスマ性を感じなかったはずである。ましてや、作戦が合作となればなおさらである。
「ああ、あれね。あれは出会い頭の幸運というやつでね、たまたまの偶然に殿の突っ込み癖が壺にはまっただけなのだよ」
秀吉はこの程度にしか受けとめなかったのではないか。
幸運は確かだが出会い頭ではなく計算しつくされたものだから、そこに秀吉の読み違いがあった。身から出た錆とはいいながらそのために秀吉は命が危くなり、下剋上に人生の活路を見出すことになってしまったのだから、いらざる読み違いというほかなかった。
天正五年九月五日、秀吉、松永久秀・久通父子の謀反に呼応して毛利が攻勢に出るのを警戒して勝家の許可なく長浜に帰陣。
同じく七日、秀長ら姫路に帰陣。
仮にこれを秀吉の独断専行癖としておこう。
天正七年九月四日、秀吉は中国陣から安土城に来て信長に面会して宇喜多直家の降参の許可を願った。しかし、信長は認めないばかりか、「事前に相談もなく示し合わすとは何事か」と非難して秀吉を追い返した。信長はいくさを武将の裁量に任せると同時に事前の相談を義務づけていた。
これが秀吉の独断専行癖の第二弾である。
天正九年三月二十五日、家康、信長に敵方から申し入れのあった内応への対処を相談し、勝手次第と言質を取ったうえで高天神城を奪回。
家康の信長に対する態度とはあまりの違いに驚かされる。
秀吉の信長に対するぞんざいな姿勢はとうとう口にまで表われてきた。
秀吉が中国陣で武田秀頼自刃の報に接したとき、
「我、軍中にあるならば、強いて諌め申して、勝頼に甲信二州を与えて関東の先陣としたらんに、東国は平おしにすべきに」
こうした批判癖は秀吉しか見られない態度である。
当然、柴田勝家に「信長に足を向けて寝てはならぬ」と釘を刺すほどの信長だったから、当然、秀吉個人にはあまりよい感情を抱いていなかったはずである。だからこそ、人望があり信長から信頼されている秀長を立てて保身の楯とせざるを得なかった。
羽柴勢の働きはいつもめざましいものがあったが、実際の指揮権は秀長が持っているから、秀吉としては自分の意のままになる手勢が欲しい。そこで気性が素直で稀にみる好青年の宇喜多秀家を篭絡して目的を遂げようとした。それゆえにこそ、信長がいくさを武将の裁量に任せると同時に事前の相談を義務づけていたのを知りながら、天正七年九月四日の独断専行となったのだろう。
それはさておき……。
時系列に関係なくいうと、以上のことなどが有機的に関連して、
「信長の代、五年、三年は持たるべく候。来年あたりは、公家などに成らるべしと見及び候。左様て後、高ころびにあふのけにころばれ候ずると見申し候。藤吉郎さりとてはの者にて候」
天正元年十二月二十日付恵瓊の書簡のような仕儀になったのだろう。
秀吉が信長にあまりカリスマ性を感じていなかったから、あれもあって、これもあって、こうなり、ああなったという類の出来事であり、時系列的な順序は関係ないのであり、極論すれば本能寺事変の源流をなす原因は桶狭間合戦にあったと断じてもよいくらいなのである。
