マイナスを補って余りある秀吉のエネルギー
桶狭間合戦当時の信長の帷幄と岐阜城に本拠を移して天下布武を唱えたときの信長の帷幄を列挙すると、前者のときは林佐渡守秀貞、佐久間大学、佐久間信盛、柴田勝家、後者になってからは柴田勝家、佐久間信盛、丹羽長秀、木下秀吉、前田利家、森可成、坂井政尚、蜂屋頼隆、明智光秀、中川重政らの名が挙がる。前者のうち佐久間大学は討ち死、林佐渡は桶狭間の合戦に反対したため追放されたことになっている。林佐渡は天正八年八月にもリストラされるから、林佐渡は佐渡でも別人かもしれない。林佐渡と一緒に反対した柴田勝家は許される代わりに、「権六は死ぬまで信長に足を向けて寝てはならぬぞ」と釘を刺された。信長がリストラを猶予したのは秀吉だけではなかったのである。
信長としてはあくまでもリストラを断行して量より質の高い組織にして出直すのが本当だったのだろうが、骨肉の争いに明け暮れた家中に彼らに代わるほどの人材がいなかった。やらねばならぬリストラだが、断行したら丸裸に近くなってしまう。こうしたシチュエーションも秀吉に味方したものと思われる。しかし、美濃の斎藤家に寄食していた明智光秀、あるいは事件を起こして追放の身でありながら密かに参戦、さらに稲葉山城を攻めたとき手柄を立ててようやく帰参を許された前田利家とは比較しようがないほど信長の秀吉に対する印象は悪かったはずである。
柴田勝家を許したことから考えても、信長がリストラの必要性を認めながら断行できなかった事情がうかがい知れるのであるが、それだけでは彼らに伍して台頭するエネルギーが秀吉には生まれない。
秀吉のキャラクターはその行動パターンからセグメントすると「話術の巧みさ」「奸智」「臆病なほど保身の権化」といった具合に分析できるのだが、「差し引きプラスが大きいときは大胆かつ果断な行動に出る」という但し書きがつく。以後、勝家が必死の働きで功名手柄を重ねたように、秀吉の働きにもめざましいものがあった。
エネルギーは存在したのである。
しからば、いかなるエネルギーであったか。
否、秀吉はいかにして第一次生命の危機を克服したのか。
秀吉の話術の巧みさは久庵吉乃に取り入ったことで証明される。
《弘治二年、この者は生駒屋敷に来ると小才をもって取り入り、ついに生駒屋敷に滞留したが、なかなか諸国の事情に通じ、才覚もあるようであった。そこで、たまたま居合わせた蜂小六殿が、面構え好き者といって召し抱えなされたのである。
この者は小兵ではあったが、武辺を好み、諸所に出入りしては立ち居振舞いも軽々に働くので、随分と目をかけられ、珍重されたのである。久庵様が郡村の生駒屋敷におられたときなどは、身近にあって、いつも久庵様の御機嫌を取っていたものだ。話も上手であったから、御前も憚らず、他人が口にしにくい色話でも、少しも恥らうことなく話していたものである。
あるとき、信長様が久庵様のところにこられ、この者を召し寄せられて話し相手にされたことがあったが、藤吉郎は信長公の御前であるにもかかわらず、日頃の剽軽な話の仕草で信長公を大いに笑わせたという。そして体の小さいにもかまわず、御前に武者奉公を願い出たのである。
なんとも度胸のよいことだが、さすがに居合わせた八右衛門(生駒家長)がたまりかね、お前のような小兵では腕力もあるまい、太刀も振れぬようで武者奉公とは心得違いもはなはだしい、とご意見をされたが、それでも、御大将の馬の口取りなりとも使って下され、と今度は久庵様にたのんだというから恐れ入った話だ。
やがて、久庵様のお付きの者が、信長公に口添えなされたようで、郡村への使い走りなどをそつなくつとめていたが、ついに清須の御城でご奉公することになった》
秀吉が清洲城で信長に奉公するようになったのは永禄元(一五五八)年九月の岩倉攻め直後で、禄高は十五貫文だったという。
《郡村生駒屋敷に信長公がこられ、蜂須賀党や前野党にお目見得があり、前野将右衛門が給地を給わってご奉公することとなったのと時期を同じくしている。奇しき因縁とでもいえようか。
この藤吉郎は永禄三年の今川治部少輔(義元)との合戦のおりは、清須城に在ったとは喜左衛門(前野義康)の話である》
木下藤吉郎時代の秀吉は五月十八日の桶狭間合戦当日清洲城にいたといい、すなわち合戦に参加していなかったといい、それに先立って信長が今川上洛の報に最初に接した三月晦日、なぜかいるはずの生駒屋敷に姿を見せなかった。
《喜左衛門殿は前野屋敷で留守居をしていたので、前後の子細には不明であったから、この危急の折柄、いかに踊り好きの信長様とはいえ、なにか良きお考えがあるのだろうかと思い、郡村まで出向いてきたのであった。だが、小六殿や将右衛門殿がいたにもかかわらず、信長様は、これらの者には頓着されず、深更まで踊りに興じておられたという。
ために取りつくしまもなかったところ、八右衛門様が、
「ただ今、蜂須賀小六と前野将右両名の者が馬場先にひかえております。なにとぞ、三州の様子についてお尋ねなされますよう……」
と、取り成して下されたものの、それでも信長様は踊りの手を休めず、不敵な者どもが来たか、今宵は無礼講であるから何者なりとも参れ、と申されたので両名は御前に罷り出たところ、その場に木藤(木下藤吉郎)殿がいなかったので、二人は顔を見合わせたまま、いうべき言葉も知らず、さながら鷹に見据えられた小鳩のようであったという》
桶狭間合戦の五月十八日当日、秀吉は清洲城にいたという証言は見過ごしにできない。それに先立つ三月晦日には、当然、信長のいる部屋に姿を見せていなければならなかったらしいのだが、「両名は御前に罷り出たところ、その場に木藤(木下藤吉郎)殿がいなかったので、二人は顔を見合わせたまま、いうべき言葉も知らず、さながら鷹に見据えられた小鳩のようであった」というのはどういうことなのだろうか。
なぜ、新参の秀吉が信長の側にいるはずなのか。
小六、前将が秀吉がいるものと、なぜ、期待したのか。
秀吉がいなかったくらいで、なぜ、小六らがいうべき言葉を知らないざまを見せたのだろうか。
解析の精度を高めるために、もう一つ、材料を対比させてみよう。桶狭間の合戦当日、蜂須賀小六は今川義元が松や楠が茂る場所で休息を取るように仕向けるため献上品をそこへ移動した。その折のことを『武功夜話』は次のように描く。
《村長を先頭に御酒樽、勝栗、昆布などを準備していたが、かねて村長の藤左衛門と親しかった蜂須賀党の面々は、これを利用することを思いつき、百姓たちになりすますと、街道へ出て今川治部少輔の御輿の通過を待ち受けたのであった。
大将の蜂須賀小六(正勝)殿に率いられた面々は、前野将右衛門(長康)、蜂須賀小一郎、村瀬兵衛門、同於亀、武藤九十郎、小木曾平八、稲田大炊介(植元)、前野右京進ら屈強の者、十八人ばかりが衆人に紛れ込んで大道に出たという》
蜂須賀小一郎とはだれなのか。
小六は小六郎とも称したらしいが、記事の冒頭にすでに記されており、第一、小一郎ではない。蜂須賀の身内に小六を名乗る当主を差し置いて「小一郎」を命名する不心得者があるだろうか。当時の常識ならばたちどころに改名されらる性質の名である。
のちの羽柴小一郎秀長が蜂須賀一族として参加して臨時に「蜂須賀小一郎」を名乗ったとは考えられないか。
以上の記録を裏づけるのは無理なようだが、ヒントにはなり得る。秀吉が臆病なほど保身本能の権化であったとすると、万一にも死にたくない、さりとて信長が勝利したとき身の置き場に困ることのないように、郷里の中村から異父弟の小一郎を自分の代理として担ぎ出し蜂須賀党に参加させた、そのように想像すると辻褄が合う。仮説のヒントにするのだから蜂須賀小一郎が必ずしも「小一郎秀長」である必要はない。
さらにはまた三月晦日の不在が小六らを戸惑わせたのは田楽狭間の行動計画が秀吉にしか説明できなかったからであり、すなわち、秀吉の発案だったことを暗示する。残るもう一つ、秀吉不在の原因としては、小一郎秀長を担ぎ出すための説得に手間取って、その席に間に合わなかったことが考えられる。
ペテンめいた論法と思われてしまうかもしれないが、ジグソーパズルの組み立てに擬した歴史再現法では解釈説明上の矛盾を取り除くことを最優先するわけで、極端ないい方をすればすべて状況証拠であってもジグソーパズルが完成したとき矛盾が皆無であればよしとするわけである。方法論としてのよし悪しはさておくとして、当座、そういうものとご理解いただきたい。
