深更を過ぎて翌未明、重臣たちをわざと帰したあと寝たふりをしていた信長はがばと跳ね起き出陣を触れて、いきなり馬を駆って走り出た。清洲から熱田まで主従わずか六騎。遅れずに従ったのは物頭岩室長門守、山口飛騨守、長谷川橋介、以下、小姓の加藤弥三郎、佐脇藤八郎(前田利家の弟)のみ。もっとも、ここでは数など問題ではなかった。午後まで時間はたっぷりある。
先頭に立って突っ走るのはここぞという戦いに出る信長の癖なのである。
信長が鷲津・丸根砦の落ちる煙を望む場所に達した午前八時頃、雑兵二百ほどが追いついてきた。最終的に突撃部隊は二千ほど。ただし、午前中は戦闘なし。清洲城から疾駆した信長が、ばったり歩みを止めてしまったのはなぜだろうか。
ここが肝腎なところだ。
村雨がくるのは決まって午後なのである。湿度が高くかんかん照り、雨がくるのに条件はぴったりであったと思われる。
動から静へ見事なまでの変化……。
《正午頃、今川義元、桶狭間に進路を取り、休息、謡を三番うたわせたる由》
祐福寺村村長藤左衛門が義元に献上した品々が功を奏したのだ。
小六らの奔走の効果を見極めるための「午前中の待機」でもあったが、信長がいちばん期待したのが尾張一円に特有の「急雨」であった。今川軍公称四万五千とはいいながら雨中の訓練はなし、対するに織田軍は無勢なりといえども六年近く雨中の戦闘訓練に明け暮れた精鋭である。まして両側が沼田で、一騎打ちがやっとの細い道しか通わぬ田楽狭間、どっちが優勢か、一瞬の村雨が優劣を覆した。
《信長が山際まで人数寄せられそうろうところ、にわかに急雨、石氷を投げ打つように、敵の面に打ちつくる。味方は後のほうに降りかかる》
この降りなんだよ、これを待っていたんだよ。
信長は顔につぶてのように当たる雨滴をむしろ喜び雨の幕に身を隠して今川の大軍に近づくと、いきなり彼らの前に躍り出た。だからこそ、今川勢は「水をまくるがごとく後ろへくわっと崩れたり。弓、槍、鉄砲、幟、指物などを乱すに異ならず、今川義元の塗輿も捨て、崩れ逃れけり」という常識では理解できない今川方の惨状になったわけである。
信長が生駒家長にいった「いずれ大事が事実になるやもしれぬ」とはこのことであったと今は断言してよいであろう。信長は何年も前から勝利を確信し、仮に予想がはずれたときは死ぬまでと思いを定め、ピンポイントの作戦に運命を託してきたのである。
「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり。一度生を得て、滅せぬ者のあるべきか」
さらにつづけて、
「死のうは一定」
結果を欲しがらない、何事も大将の覚悟と軍団の信頼関係が大事、信長がワンセットで用いた二つのフレーズを翻訳すると以上のような精神的行動規範が浮き彫りになる。
さらにはまた桶狭間の勝利が信長を精神主義的傾向へと駆り立て、以後、いくさのたびに単騎先頭で攻め込むパターンが定着したものと思われる。桶狭間を機に信長は神がかったのである。
