信長と光秀、虚々実々
五月十五日に時系列物差しの目盛りを戻すと……。
誠仁親王が践祚した暁には信忠が征夷大将軍、前田利長が脇侍すなわち補佐し家康が後見することになっていたと仮定すると、極めて小人数による家康と利長の安土訪問はその伝達式みたいなものでもあったのだろう。利長も幼い正室を連れて安土城内の前田家屋敷にきており、近く京洛遊覧に出かけることになっていた。上洛の途中、瀬田で本能寺の変の報告に接したとき幼い正室を急いで尾張荒子に避難させたうえで利長は行方を晦ませたくらいだから「浜松の饗応の答礼として家康を招いて饗応した」という家康饗応の解釈はどうやら違うようだ。利長まで招かれて饗応役が別に決まったことを知ったとき、あらかじめ信忠の後見役を自認していた光秀は衝撃を受け、憤然として謀反を決意、中国陣に駆けつけよという信長の命令に甘んじて従った。しかし、なぜ、坂本城から動こうとしないのか。
秀吉の謀反の疑いが濃厚になったのに加えて光秀の行動に疑問が生じた段階で信長が安土城を出る可能性はなくなったはずである。
天正十年五月二十一日、家康、上洛。
とりあえず家康が上洛してようすを見ることになった。
天正十年五月二十六日、光秀、坂本城を出て丹波亀山城に移る。
坂本城にいるか、家康を襲うか、どちらかなら光秀の向背がはっきりするのだが、これでまたわからなくなった。だからといって秀吉の要請をうやむやのままにはできない。
天正十年五月二十九日、信長、上洛、本能寺に入る。従者、小姓衆二、三十人のみ。
このような貧弱な体制から推測すると、信長に備中高松まで行く考えがなかったのは明らかである。信長の錯誤は小勢で本能寺に入ったというより、信忠を先行させなかったことである。肝腎なときほど出る先頭を駆ける癖が災いしたというほかない。
同年六月一日、本能寺の変、信長、明智光秀に討たれる。
隠密は光秀が備中高松に発向したと報じてきた。が、あにはからんや、光秀は途中で方向を変えて本能寺へ攻め寄せたのである。光秀謀反の報に接したときの信長の言葉は「是非もなし」であった。あのシチュエーションでこの言葉を吐くということは、信長が光秀の謀反をある程度覚悟していたことを物語るものである。
ただし、光秀謀反の可能性を予見するからには信長と家康の間で万一の場合が話し合われたはずである。なぜなら、家康一行の案内役が長谷川秀一だからである。長谷川秀一は鷲峰山の麓に居館を構える山口氏、鷲峰山金胎寺から御斎峠(おときとうげ)あたりまでを支配下に置く山口氏と昵懇の間柄だった。万一のとき、家康の所在が京か堺か、いずれの場合でもこうと決められた避難経路だった可能性が高い。まして、本多正信が道案内に立って帰参をかなえられているのだから、事前に避難経路が確保されていたのは間違いない。ただ、御斎峠経由の道筋は変更された。鷲峰山の平坦な峰づたいに裏白峠に出、信楽、桜峠、丸柱、柘植、白子湊へと、家康一行は変更された経路を疾風のように駆け抜けて災難を免れた。
余談になるが、伊賀越えをきちんと描くうえで障害となったのが諸文献にある「音聞峠」の所在であった。宇治田原町役場の教育委員会の担当者に聞いたがわからないということだった。広く文献を当っても「音聞峠」の地名こそ現われるが、みんなあやふやで出鱈目なことばかり書いてある。私が「音聞峠」の場所を特定すべく現地へ足を運んだのは当然のなりゆきであった。俄然、収穫はあった。鷲峰山から裏白峠までの尾根道は見事なまでに平坦であり、裏白峠から一気に下って信楽から先もほとんど平地を行くに等しかった。私は時間がなくなったため家康一行が駆け抜けた道をタクシーでたどった。試しに運転手さんに尋ねた。
「運転手さん、音聞峠はどこにあるんですか」
「たろうにあります」
「たろうって何のことですか」
二、三やり取りして「たろう」は「多羅尾」であると判明した。
「すると運転手さん、〈おときとうげ〉はどんな字を書くんですか」
御斎峠と運転手さんは答えた。地図で確認すると多羅尾から伊賀方面に出る峠に「御斎峠」の文字があった。私は「おとききとうげ」と間違った発音をしたのだが土地鑑のある運転手さんは自分で勝手に修正して聞いて「おときとうげ」と理解したのである。資料の執筆者は伝聞で書いたため逆に「おときとうげ」を「おとききとうげ」と聞き違えて「音聞峠」の文字を当ててしまったのだ。
考証は必ず現地を踏むべし。
みずからの経験から得た教訓である。
さて、またしても時系列目盛りを本能寺事件勃発の直前に戻すと、家康の上洛に応じて、二十六日、光秀が動き出した。行く先は丹波亀山城であった。当時の光秀の判断はどうだったのだろうか。当然、信長と信忠が自分より先に動けばそこを襲い、安土の家康と利長を襲うか、動かない場合は安土城にいる四人を襲うか、その両面作戦だったと思われる。ところが、家康だけ先に上洛してしまった。二十一日から二十五日まで五日間ようすをうかがっていたのだが、信長と信忠は動かない。利長も安土城に留まっている。
「こりゃ、いかん」
へたをして「一兎」さえ逃がしてしまう事態を恐れて、光秀は慌てて丹波亀山城へ向かったのではなかったか。第一目標はあくまでも信長である。信長さえ安土城から誘い出せば堺へ向かった家康にも追い討ちをかけて殺すのはたやすい。あわよくば安土城にいる利長までをも……。
丹波亀山城に光秀が入ったのを見届けたうえで、五月二十九日、「亀山城へ入ったからには光秀謀反の疑いは、最早、杞憂であろう。とりあえず本能寺まで行こう」と気を許して、信長は安土城を出た。つづいて利長と幼い正室のカップルが京遊覧のため安土城を出て、瀬田まできた。
当時のシチュエーションから、信長に来援を要請すれば必ず光秀が謀反を起こすという確かな見通しを得たうえで秀吉が仕掛けた可能性が高い。義昭を利用して光秀を遠隔操縦した秀吉の才智というものは、「才智のわれに劣らない者は三成のみ」と本人が豪語するだけあって、実に恐ろしい才智である。
(つづく)
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真相に迫る近似値を解析する九つのセンスとノウハウ
これまでの日本史は「俺が、俺が」と個人が勝手に解釈して書き散らかす時代でした。
そこで、次の九つのセンスとノウハウを駆使して解析する試みを提案します。
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(解析の切り口を発見するのに不可欠の疑問を感じ取るセンス)
◎見識物差し
(歴史上の人物の見識レベルで判断する洞察力)
◎モンタージュ法
(踏まえるべき事実群から法則性を持つパターンを選り分けてクロス分析するセンス)
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(発言や手紙文を要素別に分解して思いもよらない背景を描き出すノウハウ)
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(踏まえるべき事実をセグメントして多重解析により思いもよらない背景を描き出すノウハウ)
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(パターンを比較して潜在状況を読み切るセンス)
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◎ジグソーパズル式多重モンタージュ
(最後に仮説検証法も含めて八つのコツから導かれた解析結果を矛盾なく組み合わせて真相に迫る近似相を再構築します)
習うより慣れろ
本講座のモットーです。
説明するよりも実例を用いたほうがわかりが早いと思います。これから更新するたびに実例を展開して解析法を演習していきます。
本講座と出会ったのがきっかけで自力で解析できるようになり最高の知的エンターテイメントを手に入れていただきたいと願っております。
記録にない事実を掘り起こす説明するよりも実例を用いたほうがわかりが早いと思います。これから更新するたびに実例を展開して解析法を演習していきます。
本講座と出会ったのがきっかけで自力で解析できるようになり最高の知的エンターテイメントを手に入れていただきたいと願っております。
これが真実だといいきれる事実はない、というのが本講座の基本認識です。
したがって真相を解明するというより真相の近似値を解析するのが本講座の目的ということになります。記録が少なく既成の解釈や推測まじりの史料から得た事実だけでは解析の精度が低くなりがちなので、極力、埋もれた事実の発掘に努め、解析の精度を高めていく必要があります。
もう、これ以上は不可能というところまで、本講座に終わりはありません。
どのようにして埋もれた事実を発掘していくのか、実例を用いて説明していきたいと思います。
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