偶然が生み出した劇的シチュエーション


 天正十年五月十五日、家康、信長の招きで安土入り。信長、明智光秀に命じて家康を十七日まで饗応……。
 甲斐国の武田勝頼が織田・徳川連合軍に追い詰められ、天目山麓田野で自刃して果ててからわずか三ヵ月後の十五日、織田信長の招きを受けて徳川家康が安土入りし、百々橋口城内本丸肩の頂上の総見寺に宿泊した。供廻りは石川伯耆守数正、酒井左衛門尉忠次、鳥居彦右衛門元忠、本多平八郎忠勝、榊原小平太康政、大久保忠隣、天野康景、高力清長、牧野康成、渡辺半蔵、服部半蔵および小姓組井伊万千代直政らわずか三十人にすぎなかった。滅亡したばかりの武田家の旧臣穴山梅雪も信長に拝謁すべく家康に同行してきていた。
 ここまでは嵐の前の静けさである。
 ただし、信長が家康を招いたのは家康から受けた饗応の答礼というかたちを取りながら、岩沢愿彦著『前田利家』がいうように「信長がこの利勝夫妻を京都に呼んだのは、中国地方に出陣しようとする際であり、この時三河・遠江の徳川家康や甲斐の穴山梅雪も上洛している。中国に大軍を移動するに臨んで、東方地帯有力の大名を京都に召集したのは、あながち新知拝領の答礼をさせるばかりではなかったように想像される」という見方が正しいのかもしれない。実は違うのだが、現時点ではそういうことにしておく。
 織田家の軍勢は北陸に、西国へと出払っていて、安土城下は手薄だ。岩沢愿彦著『前田利家』が「中国に大軍を移動する」と述べているのは光秀の軍勢を含めてのことで、信長の手勢はわずかであった。城主織田信長の賓客として来た徳川家康一行が少数精鋭とはいえ、穴山梅雪が変心し攻撃したら窮地に陥るほどのわずかな供立で乗り込んだのは、そのへんを考慮してのことだろう。織田信長も城下の守りが手薄なことはよく心得ていたらしく、警戒はいつになく厳重だった。
 一見、問題はなさそうであった。
 中空の円の中心には安土城があり、攻め寄せる勢力があったとしても、それは円の外である。松永久秀がちょうど円の縁あたりから信貴山に引き返して叛旗を掲げたことがあったが、不発に終わった。久秀の轍を踏む愚か者もおるまいと思うが、一応、用心はしておこう。
 信長はこんな感覚でいたのではないだろうか。
 だが、次の事実でシチュエーションが一変してしまう。

 天正十年五月十七日、明智光秀、坂本城へ帰り、二十六日まで滞在。

 十七日から二十六日まで、光秀は信長と家康の行動を偵察しながら越後上杉氏と連絡を取っていたらしい。光秀としても越後上杉氏の動向はあまり当てにしていなかったはずであるが、信長が秀吉の要請に応じて安土城を出ると知ってプラス思考に転じた。
 問題は十七日に起きた事件の展開である。饗応役の突然の交代は信長が光秀を解任したという説と光秀がみずから辞退した説が考えられる。問題は解任か辞退かではなくて、午前か午後かである。この日の昼前、安土城本丸天守閣四階の居間でくつろぐ信長のもとに備中高松城攻めの陣地から秀吉の書状が届いた。秀吉が主人信長自身の出馬を促す書状であった。
 備中高松城は秀吉の水攻めに遭って守将清水宗治以下城兵はことごとく餓死寸前と聞く。救援に赴いてきた毛利輝元と小早川隆景は羽柴勢と対峙しつつ泥沼と化した城下を見守るばかりで、最早、和睦するほかに彼らを助けるすべを持たない。秀吉は至急応援を請うと申し送ってきたのだが、信長が出馬したとしても実際には毛利方との和睦を見届けるだけのことでしかない。
 信長は安土城の現状を頭の中で確認した。
 
 柴田勝家は越後の上杉景勝が立て籠もる魚津城を攻撃中である。滝川一益は上州厩橋に兵を展開し、信長の三男神戸信孝と丹羽長秀は摂津にいて四国渡海の準備に取りかかっている。信長の主力はあらかた出払って、応援に送る兵といえば近江坂本城と丹波亀山城にいる明智光秀の手勢のほかにまとまった兵はないのだった。光秀は家康の饗応役だから向かわせるわけにはいかない。
 秀吉がそれを知らぬはずがないのである。
 甲斐の武田攻めのとき、信長は安土城を空けて出馬した。亡霊のように常に背後を悩ましつづけた武田軍団の滅亡を我が目で確かめ東海・関東・奥州同盟へ踏み出す第一歩に立ち会うためだった。重要性という点では和睦による決着が目に見えている中国陣など比較にもならなかった。
 
 だが、信長には秀吉に援軍を送らねばならない理由が二つほどあった。一つは信長が薩摩の島津氏に天正八年八月十八日付で発令した「九州停戦令」である。本願寺降伏により畿内を平定した信長は天正九年には安芸国に出陣するから大友氏と和睦して毛利氏攻略に参加するよう島津氏にうながし、そうすることが「天下に対する大忠」と申し送ったことである。二つ目が天正九年三月、信長は戦況報告に戻った秀吉に「毛利輝元と小早川隆景が出馬したときはみずから応援に向かう」と彼に約束したことであった。
 秀吉とした約束だけだったら何ら縛られる筋合いのものではないのだが、島津氏に言質を与えた手前があり、仕方なく信長は中国発向を宣言したということであろう。しかし、どこまで行くつもりだったのかわからない。本能寺から先へは未来永劫に進めなくなってしまったからである。弾劾的考証法のアプローチからすると、本能寺まで行ったのだからといって備中高松まで行くことにはならないという考えに立たざるを得ない。本能寺から先は未決の事柄なのだから、一応、本能寺まで出かけてお茶を濁す手も考えなければならないのである。相手が家康なら万に一つもそのようなことはないのだが、相手が秀吉だけにあり得ないことではない。むしろ、それぐらいの用心があってしかるべきである。ましてや、光秀を残して行くのは安土城をただでくれてやるようなもので、あってはならないことだ。
 かくして秀吉が寄越した一通の書状が信長を取り巻くシチュエーションを一気にむずかしくしてしまった。一見、偶然とも取れるなりゆきであるが、秀吉が天正八年八月十八日付「九州停戦令」を念頭に置いて信長が安土を出ると読み切っていたとしたら、意味はまるで違ったものになる。天才的というか、悪魔的というか、あまりに空恐ろしい秀吉の才智である。

 岩沢愿彦著『前田利家』の味方を時限的に正しいとしたのはここに原因がある。やはり、素直に「新知拝領の答礼をさせるため」と考えたうえで、秀吉の一通の書状がシチュエーションを一気に緊迫したものにしたと観測するのが正しいようである。

 信長の立場からするとどうなるのだろうか。
 島津氏に与えた言質が中国出陣を秀吉に約束する呼び水になった。それがなかったら、信長が秀吉にそんな約束をするはずがない。しかし、島津氏に与えた言質と秀吉にした中国出陣の約束がワンセットに働いてどちらも無視できないものになってしまった。だが、応じたらどうなるか、信長は慎重に熟慮したはずである。奥州の伊達と連携して関東を統治する北条氏と婚姻の約を結び、甲斐武田氏を滅ぼし、九州停戦令を発したことにより、信長の天下布武は中国制圧を残すばかりとなった。やるべきことはサボタージュを決め込み、今頃になって出馬を仰いできた秀吉を叱咤し、なおかつ自分の出馬により九州の島津氏を動かして秀吉を牽制することだ。
 盟友家康と娘婿利勝の饗応も大事だが、秀吉の叱咤はそれに勝る。ただし、信長自身がわざわざ出向いてすることではない。当時、安土近辺でまとまった軍勢を動かせるのは光秀だけだったから、光秀を行かせるほかに選択肢はなかったのである。これが光秀の饗応役解任の動機であり、理由である。
 他方、すでに義昭から謀反の働きかけを受けて、北陸の上杉景勝に呼応を打診するほど心が動いていた光秀にしてみれば、降って湧いたような好機到来である。したがって、従来いわれるような信長と光秀の確執などが饗応役解任の原因ではないし、饗応役解任が謀反の動機ではないのである。ここで踏まえるべき事実は秀吉が義昭・恵瓊を隠れ蓑にして光秀を遠隔操縦することに成功したということと、信長が秀吉に要請があればいつにても応援に駆けつけると約束していたこと、島津氏に与えた言質の手前どうしても安土を出なければならなかったことである。秀吉が信長に仕掛けたシチュエーション・トラップは実に精密で完璧だった。
(つづく)


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真相に迫る近似値を解析する九つのセンスとノウハウ

これまでの日本史は「俺が、俺が」と個人が勝手に解釈して書き散らかす時代でした。
100パーセント真実といえる事実など時のかなたの当時以外には存在し得ないという大原則に照らすとき、いつまでもそれでよいのかという思いに駆られます。真相に迫る近似値を掘り起こすためにも方法論を用いて確かな道筋を模索し、一致協力してかかる時代の幕開けをもたらす必要があるのではないでしょうか。
そこで、次の九つのセンスとノウハウを駆使して解析する試みを提案します。


疑問感受性
 (解析の切り口を発見するのに不可欠の疑問を感じ取るセンス)


見識物差し
 (歴史上の人物の見識レベルで判断する洞察力)

モンタージュ法
 (踏まえるべき事実群から法則性を持つパターンを選り分けてクロス分析するセンス)

因数分解解析法
 (発言や手紙文を要素別に分解して思いもよらない背景を描き出すノウハウ)

セグメント抽出法
 (踏まえるべき事実をセグメントして多重解析により思いもよらない背景を描き出すノウハウ)

パターン物差し
 (パターンを比較して潜在状況を読み切るセンス)

時系列物差し
 (踏まえるべき事実を時系列的に相関させて一連の動きを筋道立てて掘り起こすセンス)

仮説検証法
 (方程式は未知数Xを含む等式ですが、仮説Xを用いて真相の近似値を導く手段です。ただし、仮説Xを立てないと解析が一歩も進まないという場合に限って用いる最後の手段です)

ジグソーパズル式多重モンタージュ
 (最後に仮説検証法も含めて八つのコツから導かれた解析結果を矛盾なく組み合わせて真相に迫る近似相を再構築します)



習うより慣れろ
 本講座のモットーです。
説明するよりも実例を用いたほうがわかりが早いと思います。これから更新するたびに実例を展開して解析法を演習していきます。
本講座と出会ったのがきっかけで自力で解析できるようになり最高の知的エンターテイメントを手に入れていただきたいと願っております。


記録にない事実を掘り起こす
 これが真実だといいきれる事実はない、というのが本講座の基本認識です。
したがって真相を解明するというより真相の近似値を解析するのが本講座の目的ということになります。
記録が少なく既成の解釈や推測まじりの史料から得た事実だけでは解析の精度が低くなりがちなので、極力、埋もれた事実の発掘に努め、解析の精度を高めていく必要があります。
もう、これ以上は不可能というところまで、本講座に終わりはありません。 

どのようにして埋もれた事実を発掘していくのか、実例を用いて説明していきたいと思います。




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