最近・・と言うか。

前から疑問に思っていたことがあります。


それは・・・。



音楽大学の入試の実技で、ジョン・ケージの0分00秒や、4分33秒を演奏したらどうなるか!?

と言うことです。


ある所で、この疑問について問うたら・・。

合格は難しいだろうと言われました。


でも、実際にはどうなんだろう。

いつも頭から離れません。



ジョン・ケージ

・・・アメリカの作曲家。

独特の音楽理論や音楽表現によって、音楽の定義を広げた人物。

「沈黙」をも含めたさまざまな素材を作品や演奏に用いている。



音楽についての考え



当初、ケージは自らの音楽が「実験音楽」と呼ばれることに異議を唱えていた。

いかなる実験も、作品が完成する前に行なわれていると考えたため。


しかし後には、結果を予知できない行為を「実験的」と表現し、自身が特に興味をおぼえ、傾倒するすべての音楽を実験音楽と呼ぶようになった。

実験音楽においては、音以外に何も起らない。

楽譜にない音は沈黙となって現われるが、外界に生じる音に対して開かれていることを意味する。


音は常に存在しており、音はあるがままにして聴くべきである。

そして実験的な行為は、通知された行為とは異なり、物事をあるがままにとらえるとしている。

こうした考えは、無響室での体験がもとになっている。

音楽

音楽という言葉を、「音の組織化」という表現に置き換えようと提案した

音楽という表現は、18世紀から19世紀にかけて完成された楽器を使ったものに使われすぎていると考えた。

作曲者、演奏者、聴衆の関係

ケージの作品は、演奏者によって内容が大きく異なる。

彼は演奏者が作曲者になり、聴衆が演奏者になり、作曲家が聴衆になり、音によって互いに浸透すると考えた。

レコード

レコードを用いた作品を発表したが、自作をレコードに録音することには積極的でなく、レコードを「景色を台無しにしてしまう絵葉書」と呼んだ。



無音教室での体験


1940年代末のある日、ケージはハーバード大学無響室を訪れた。

ケージは「無音」を聴こうとして無響室に入ったが、彼が後に書いたものによれば、彼は


『二つの音を聴いた。一つは高く、一つは低かった。エンジニアにそのことを話すと彼は、高いほうは神経系が働いている音で、低いほうは血液が流れている音だと語った。』


ケージは無音を体験しようとして入った場所で、なお音を聴いたことに強い印象を受けた。


『私が死ぬまで音があるだろう。それらの音は私の死後も続くだろう。だから音楽の将来を恐れる必要はない。』


無音の不可能性をみたという認識が、後の「4分33秒」へ彼を導いた。



0分00秒

・・・

標題の下には「独奏として誰が何をしてもよい」という感じに書かれている。


しかしこの点については誤解が生じやすいので注意です。


演奏者は「ある習熟した行為」を行うが、それは例えば、字を書く、歯を磨く。タバコを吸う、というような日常的な行為の事です。


またこの作品を次に演奏する際は、すでに行ったことのある行為をしてはいけない。

音楽的あるいは演劇的身振りを避け、聴衆を電子的な状況に注目させるような小細工もしてはいけない。



4分33秒

・・・この曲は、音楽は音を鳴らすものという常識を覆す、「無音の」音楽である。


この曲は3つの楽章から成っている。


それぞれの楽章の所要時間は、演奏者の自由。


その楽器でさえ、ピアノでもヴァイオリンでもサクソフォーンの重奏でもオーケストラでも何でもよい。

その合計所要時間をこの曲の曲名とすることとなっている。


この曲は、いわゆる「無」を聴くものというよりも、演奏会場内外のさまざまな雑音、すなわち、鳥の声木々の揺れる音会場のざわめきなどを聴くものとされている。