宗教に関して | 目指せコツコツキリギリス

宗教に関して

火祭りの会場を回っている最中に途中でやっつーから、

「どうしてもS系にはまりそうな自分がいるのでヘルプミー!」

みたいな内容のメールが来る。



その回答。





思うに、宗教をガチで論破しようとする人ほど宗教にはまりやすい。


それはなぜか。


「論破しよう」と先入観を持ってかかると、

宗教の教義や、何者かの思想に染まる危険性を論じることよりも、

「論破出来るか否か」が肝心になってしまう。



しかし、宗教上の教義なんてのは、

大抵どれも道徳的・倫理的に王道を行っているため、

真正面から論破するのは困難。

試みるとこっちが足元をすくわれる。


宗教の論理を構築している側の人間は、必ず目的や手段に正論を掲げる。

信者に疑問の余地を与えないためだ。



一方、論破に重点を置いている人間の頭は、

往々にして論理的に語ることを好む。

宗教なんて非論理的なものは自分の理性を持ってすれば論破できて当然だ。

くらいの意気込みをもってかかる。






宗教をナメてもらっては困る。







古来四千年の歴史を持つ分野だ。

巨大化する宗教組織に論理性を持たせない訳が無い。

論破されることは同時に集団のアイデンティティーの崩壊を示すのだから、

必死で阻止する。

時には文字通り、命を賭して。



その上、宗教は極論人間の思想構築物だから、

物理的な迫害では消滅しない。

故に宗教は不滅性という強力な強みを持っている。




そもそも、宗教は人が長い時間と物量を投入し、

論破されないように磨き上げられた論理の結晶なのだ。

それを少しばかり知恵をつけた僕ら若者が論破できるはずも無い。


宗教教義の正面論破は、

取り掛かる個別宗教の歴史と闘争するのと同義なのだ。






しかし、論破できないのは負けを認めたことと同じ、

と論破チャレンジャーは考える。


「論破できないならば、論理的に正しい。筋が通っているという証明だ。

それならば間違っているのはむしろ自分の方ではないのだろうか。」

と疑問を持ち始める。


そしてその道徳的・倫理的に綻びの無い教義に関心を持つ。

論理明快で基本的に人類の幸せや平和を唱える彼らに、徐々に魅了される。

ここまできたらあとはあっちの思う壺。


自分の中で論理を回せる人は、

既に答えの提供されている美味しい論理を食べる飲み込む。

気が付けば、


「素晴らしい!なんて理性的で平和な世界なんだ!

この思想をもっと世に広めるべきだ!非論理的だなんて言わせないぞ!

そんな奴は論破してやる!!」






論破チャレンジャーは知らぬ間に闘争の牙を抜かれ、

飼い慣らされ新しい牙を装着し、

いつしか飼い主の為に戦う「操られた論破チャレンジャー」に。

教義に向かう敵は噛み殺す。

俺は教義論理の番人であり、平和思想布教の闘士。







そんな彼に一言。

批判手法で最も大事なのは、「宗教の信仰」の構造自体に疑問を持つこと。


本来、思想は法律とは違うので、

万人が万人別のものを持っていてしかるべき。


しかし、宗教は教義を固定化し信者をそれに向って纏め上げる。

貧困や悩んでいる人々の弱った精神につけこんで。

それが進行すると教義と絡めて戒律をつくり、

次第に人の闊達であるべき精神をも縛る。

思想の自由は宗教組織の大敵だから。






「隣人を愛せ」だの「人類の平和」だの。

正しいよ。最もだ。大いに結構。







でもそんなのは一人で心の中で思ってろ。


そういうのは、

みんなで一緒に祈るものではなくて、

みんなで一緒に考えて行動すべきもの。



そして人から教えてもらうものではない。




お経唱えるのは楽でしょう。


唱えるのは実際に活動するより遥かに簡単だもの。


でも目を瞑って手をすり合わせても、現実は何も変わらない。





しかし人は時に縛られることとを望む。

楽な方を求める。


それは否定しない。

人は楽に、幸せに生きる方へと流れるのだから。




だがそれを頭の中でぐるぐるやったってなんの解決にもならない。










まとめると、宗教教義に関しては対抗せずに「そりゃそうだろ」と飲み込むこと。



一方で宗教それ自体に対して持つべきスタンス。

彼らの大半は別に悪いことをしている訳ではないので、

戦って潰そうとしないこと。

彼らにもプライドはあるし、平和を求めている集団には変わりないから。



ただ、自分がその色に染まりそうな時は、

「思想をする姿勢はは本来どうあるべきか」を考える。

思想は個々別々に存在すべきものであって、

纏め上げたり強制したりするべきものではない。


思想は一つに向かって歩むべきものではないのだ。



一つに向かって歩むべきものは現実の世界に存在していて、

決して頭の中に求めるものでなない。












ここまで書いて、僕自身が宗教を毛嫌いしているように思われては困る。

僕は宗教を歴史上重要な役割を担ってきたと考えているから。





人間は一人では生きられない。

集団の中で生活する社会的動物。




世界各地、風土的に生存が困難な地域に生息した民族もいたはず。

彼らをまとめ、生かしたのは、他ならぬ宗教だろう。



また、論理を磨き上げたという点では、

ある段階まで人の知性を引き上げる役割もあった。

道徳的な成長にも大いに寄与した。



加えて建築・美術・文学あらゆる方面の技術向上に、

宗教は果てしない貢献をしただろう。









僕は歴史的に、宗教に感謝している。









しかし、その役割はもう終わったのではないだろうか。


ゆっくりではあるけれど、世界が一つにまとまり始めている。


これから僕らがすべきことは祈り、耐えるのではなく、

考えて実際に行動に移すことだ。





この考えは、僕の現代人に対する過信だろうか。





世界の思想の進歩的な歩みを阻んでいるのは、

先に言った宗教の不滅性がそうはさせないからだろう。














僕は僕の思想を以て、僕を動かす。