「欲しがりません、勝つまでは!」
のタイトルで昨日思いをを上げたのですが、
実は両親のこの時期の記憶や思い出を良く聞かされた。
食料品や物資が不足していて、
都会では、碌に食料品が無かったと。
しかし、疎開先の田舎では、野菜や米が実は多くあったというのだ。
サツマイモのスイトンは都会では当たり前であったが、
田舎では、本当に美味しい米、野菜など食べ物が多くあったと。
「七人の侍」と同様に、隠し食料があったのかもしれない。
今のこの世の中、都会は発展しすぎて、
先の姿が見えない。
例えばシステム会社に勤めても、
国際競争力では米国に勝てない。
ハードもソフトも米国のために働いているようなものだ。
自転車操業のように来る日も来る日も、
案件を追いかけ、その先には生活の姿が見えてこないのではないか。
ITや携帯の発展は利便性をもたらしたが、
それは単に、納期を短縮させる結果となっているだけで、
ゆとりが生じたわけではない。
昔と比べ、ゆとりが生じているのは主婦だけ。(笑)
こんな時は、
農業を改革することに多くのニーズがあるように感じる。
食料品が足りないこと自体が将来の不安だ。
私の疎開先の美味しい野菜が幸せを実感したそうだ。
農業も昨今の悪天候では、被害を受けるし苦労もあるが、
働くことの意味自体を考えると、
先進性を追い求め、海外企業と競争(戦闘)を行うという現代の
いわゆる仕事というのは不毛さも一部では感じてしまう。
その先の姿が見えない、
国際競争力に勝った暁の姿が想像できないのでは、
全く正反対の人が生きるための仕事も、
悪いものではなかろう。
そこに政治と行政がうまくバランスすることが、
必要かもしれない。