昨日は浅田真央選手とキムヨナ選手との攻防を日本中が見守っていた。
2月26日といえば、74年前、2.26事件があった日だ。
非常に奥の深い事件で、一言であらわせない事件だが、
軍部の天皇政治を信じる若手将校派閥1400人あまりが、政治腐敗、堕落、農村を中心とする貧富の差などの国家現状を憂慮し、改革のために、クーデーター=維新を企て、実行した日だ。
「政治腐敗、堕落、農村を中心とする貧富の差を改革」というのは現状も同じだ。
現在の若者は、このようなある意味怖いぐらいの純粋さは無いだろう。
自分の目先の利益と、如何にリスクを避けて生活するかのみしか考えていないだろう。
クーデターや暴力により社会変革しようという最終手段は絶対あってはならない思想であるが、秋葉原事件、元官僚OB襲撃事件、最近頻発する殺人放火事件など、一度に語れる事件ではなく、全国で「社会への不満爆発」が散発しているような気がする。
最近、電車などを利用したときに見かけるのだが、
■ドアが開いた瞬間、老人と争うように席取合戦をする若い男女(概ね頭はてんこ盛りヘアでネールにラインストーンが・・)
■平気で我が子や家族を傷つける若い親
■公共交通で飲み食いし、食べこぼしをする脳足りんの若者(塾通いお受験若者)
■通りすがりに平気でぶつかって来るムカつく脳足りん無礼者の若者
を見ていると堕落以外の何物でもなく、年配の私が粛清してやりたくなる。
事の重大さや軍として武器使用を認められていた立場の若者が2.26事件を起こしたことと比較は出来ないが、
同じような世相の中で、
■社会の堕落不正を粛正するための行動は上記の若者の自分だけが助かるというエゴ的な発想よりも純粋だ
■社会のためにという意識が欠落し、己の都合のためだけに暴力を振るう言わばスケールの小さい考え
を比較しても、若者が堕落していると思ってしまうのだ。クーデターが良いとは言わない。しかし当時も社会変革への参画は若者には与えられず、与えられた余地はクーデターしかなかったのかもしれない。
暴力やクーデターを肯定しているわけではない。しかし、社会の不満を身近な隣人に振り向ける器の小さな若者の考え方を見ているとある意味での情けなさを覚える。
世の中の不満はスケールの小さな隣人に向けるのではなく、暴力に訴えるのではなく、選挙という行動で社会を変えていくことを目指して欲しい。
変革を期待し、民主党に投票した国民を今の民主党はあっさり裏切る方向に持っていってしまっている。
まあ、このようなスケールの小さな若者をどうやれば、導いていけるのか、浅田真央選手に湧く一方で2月26日に考えた。
若者を導くのは成熟した大人達の使命なのだ。