前の記事で一寸話した映画『緑の光線』について、10年近く前にヤフーブログに映画評をしていたので、此の当時の記事を転載します。

 

 

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テーマ:映画

 

15年以上前にVHSビデオテープに録画して所有していたにもかかわらず、一度も観ていなかったロメール監督の作品です。

 

『喜劇と格言劇シリーズ』の第5作にあたるのがこの『緑の光線』になります。

”格言劇”と言っているので、引用されたランボーの詩に注目すべきです。ロメール監督の作品には無意味な感覚的言辞の挿入は有り得ません。

 

Ah, Que le temps vienne où les coeurs s'éprennent

「ああ、胸熱き季節よきたれ!」 と字幕が出てました。

 

私は大学一年の時読んだ、「ランボーの『最高の塔の歌』の一節なのかな?」 と直観しましたが、フランス語が分からないので確信が持てません。

 

堀口大學氏の日本語訳、「心と心が熱し合う時世はすでに来ぬものか」

 

恣意的になりますが、このランボーの文句を基軸に『緑の光線』を考えてみました。

 

●『緑の光線(1986・仏)』 ヴェネチア国際映画祭・金獅子賞受賞作品

 

 

 

デルフィーヌ(マリー・リヴィエール)は、初め二週間の夏期休暇を女友達と海岸で過ごす計画をしていましたが、その友達から彼と二人っきりで旅行をしたいと連絡が来ます。

置き去りにされたデルフィーヌは迫る夏期休暇の過ごし方を見つけかねます。同情する友達・親類・知人は、

 

「一人旅をして彼氏を探したら?」 とアドヴァイスしてくれたり、

「私の友達とバカンスを一緒に楽しみましょう♪」 と誘ってくれたりします。

 

彼女の感性と良心は、男漁りに旅に出たり、真実、心を分かち合えない集団と時を共にすることを許しません。

 

 

 

 

 

 

冒頭のランボーの一節が響きます。

「心と心が熱し合う時世はすでに来ぬものか」

 

 

彼女が求める人間関係は、”心と心が熱し合う・・・”関係なのです。夏期休暇を共に過ごそうと約束した女友達にも裏切られ、虚栄に満ちたパリの人間関係に幻滅を覚えます。増して言わんや、恋人に対してはそれ以上のものでしょう。

 

折角、落ち込むデルフィーヌを盛り上げんとする友人・知人達の前で、食事時も海岸でのビーチバレーの時でも溶け込め切れずにいます。彼女は”自分の感情に正直であらん”とします。そうして自ら孤独の道に歩むのです。

 

日本的に言えば、空気を読まない我まま女と評価される恐れが多分にありますが、私にとっては単に正直なのです。虚偽や偽善を社会性の中で巧く取り入れることができないのでしょう。デルフィーヌの純粋性ゆえの行動です。

 

 

 

 

彼女自身も自分の社会性の欠如を知っています。皆から離れ単独行動をしても、自由を得るどころか、退屈と強烈な孤独が彼女を襲います。そうして彼女は涙するのでした。

 

 

友人達の解決法は単純です。皆で飲み食いをして談笑するか、自然の下、遊ぶかして気晴らしをすることなのでしょう。この一連の気晴らしがデルフィーヌを癒し、快活にするものと単純な処方箋を考え治療しようとします。が、彼女の人間関係における強烈な孤独はそんな治療法では治癒できません。

 

 

パリを出発する前、彼女は道端に落ちているトランプを拾ったら『スペードのクイーン』でした。私はカード占いには疎いのですが、不吉を表徴するものなのでしょう。クイーンは女性なので(当たり前)、女性に関して、デルフィーヌが受取る全ては不幸を暗示するものだったのでしょう。

 

 

デルフィーヌ自身、別に容姿に問題はありません。器量に恵まれない女性が自分の価値を過大評価して、真の友情やら愛やらを我ままし放題周囲に求めたら、社会は彼女を無視するでしょう。男に相手にされない女が、男を見下し、自分に相応しい男性は『白馬に乗った王子』であると主張したら至極滑稽でしょうが、容姿も知的においても、デルフィーヌは(当然好みはあろうが)男を選ぶ権利を持っています。

 

ただ彼女が求めるものは、「心と心が熱し合う時世はすでに来ぬものか」にあります。そうして彼女は夏休みのパリを、観光地を彷徨うのでした。デルフィーヌは偶然性の諸相の下、不安定な精神状態のまま存在するのでした。

 

 

 

 

デルフィーヌの友人は彼女に新たな彼氏の出会いをセッティングしますが、デルフィーヌ

の求める世界はここにあらずです。

 

新たな友情を、新たな恋人を安易な世界で求めれば求めるほど、デルフィーヌの孤独

は増して行きます。

 

 

 

 

旅慣れたスウェーデン娘は、レストランで地元フランス男を惹きつけますが、デルフィーヌはこんなシチュエーションでこんな男達と関わることを拒絶するのです。

 

「心と心が熱し合う時世はすでに来ぬものか」

 

彼女は飽くまでもこの言辞にこだわるのでした。安易な友情と恋愛を拒否します。悲しい思いをして、一人その場を走り去るのでした。但し、周囲からすればエラい迷惑でしょう。立ち去る理由が皆目分からないのですから。

 

デルフィーヌは自分の事をこう弁明します。

「私は余りにもロマンチストなの。ロマンチック過ぎるのよ」 と涙ながらに説明する

のです。それ故の「心と心が熱し合う・・・」なのでしょう。

 

次に一人ぽっちのデルフィーヌは磯辺でトランプを拾います。今度はハートのキングでした。これは「白馬の王子」との出会いを暗示するものでしょうか?

 

 

一人で日光浴するデルフィーヌの後ろで、高齢のグループがジュール・ヴェルヌ

(海底二万哩・八十日間世界一周で有名)の『緑の光線』の話題に興じてます。

 

「非常にロマンチックな作品なの。シンデレラや白雪姫のような」

 

背後から聞こえる話からすると、この物語の中で、太陽が地平線に沈むときに放つ緑の光線があるらしく、実際にそれを見た人もあるらしいのです。

デルフィーヌは何か霊感に取り憑かれます。緑の光線を見る経験を欲するのでした。

 

 

 

旅先で出会った初対面の人達を全て拒絶しました。友人達の好意も、デルフィーヌの孤独を癒すものではありません。完全な孤独の夏期休暇に陥ります。

そんな彼女の救いは、『ハートのキング』『緑の光線』のインスピレーションが残されただけでした。

 

 

パリの友人に勧められ自由に借りることができた別荘でしたが、デルフィーヌはパリに戻ることに決めます。そうしてパリ行きの汽車をドストエフスキーの『白痴』を読みながら田舎駅のベンチで待ちます。

 

まあ、フランス人やロシア人にある行動なのですが、ユダヤ人も含めます、平気で地下鉄等で長編の文豪作品を読んでいる姿を見たものです。日本人も電車で読書をしますが、選ぶ書籍が大抵お粗末です。デルフィーヌは教養があるのでしょう。

 

 

彼女が読む『白痴』に興味を持ったイケメンの男性が彼女に話しかけます。デルフィーヌは直観しました。彼女は喜んでイケメン男の質問を受け入れます。彼は家具職人の見習工で、二日ばかりの休日をとある漁師町で過ごす計画です。

デルフィーヌはパリ帰りの計画を変更し、何とイケメン家具職人と漁師町への旅に向かうのでした。

 

デルフィーヌは、彼に「心と心が熱し合う・・・」を感じたのでしょう。そうしてこれに賭けたのです。今まで彼女は友人のアドヴァイスに従い受動的でしたが、彼に対しては一気に転換し能動的になります。

 

イケメン家具職人も彼女の望みに付き合います。勿論それは『緑の光線』を漁師町の水平線から見ることです。

そうして二人は日没の水平線に現れる『緑の光線』を現実に見る経験を共有するのでした。

 

 

 

この場所でこの瞬間、デルフィーヌはイケメン家具職人と

「心と心が熱し合う時世はすでに来ぬものか」の野生を讃える天才詩人ランボー

の一節を我がものにした感動を得たのです。

 

デルフィーヌは真に人間的なコミュニケーションを達成したのでした。ここには嘘も虚栄もありません。