昨日、あらたに就職して5日目の朝、大変な地震が発生した。
朝、勤務してた職場で、立っていても大きな揺れが分かるほどだったから
震源地ではかなりの被害が出ていることは容易に想像がついた。
が、ここまでひどいとは・・・
被害の状況を知るにつれ
俺の悩みなんて
屁みたいなもんだと痛感した。
亡くなられた方々には心からご冥福をお祈り申し上げますとともに、
被災した方々には心からお見舞い申し上げます。
そして、
今日、父の日だからというわけでもないのだが
親父の好物のアイスクリームをスーパーで買って出てくるとき
小学3年か4年生くらいの男の子が
松葉杖をついて歩いている姿を見た。
怪我によるものなのか、先天的なものかはわからないが
はっきり言えるのは、傍で見ても完治はできそうもないということだけだった。
それでも
必死に歩いている姿を見て
昨今、自殺したり人を巻き添えにして死んでいこうとする人たちに
もう少し、こんなに懸命に生きようとしている人たちや生きたくても生きられない人たちがいることを
もっと知るべきだと痛感した、自分のこととして捉えるべきだと。
それが、優しさへつながるのかなぁ。
とはいえ、小学生の頃から自殺願望のあった俺が言うことではないのだろうけど。
でも、自分に言い聞かせる意味でも
自ら命を絶ってはいかんのではないかと最近つくづく感じる。
それは、使命のようなものを感じるようになったからだ。
使命を放り出して死ぬことはそれを課した方への裏切りであり、
それを課された自分への責任の放棄だと感じるからだ。
このところのスピリチュアルブームの中、この手のものへの批判もかなりあるようだ。
先日のNHKのクローズアップ現代でも、新宗教などに嵌る人が多いようなことを報道していた。
が、俺はこうしたブームがある今の世が特別のような報道の仕方には違和感をおぼえた。
占いや、それに似たようなものは以前からあったわけで今にはじまったことではない。
末法思想が世を覆った時代も腐敗した政治や戦渦に明け暮れた挙句、心のよりどころを求めた民衆が
今に通じる宗教を顕現させたのだろうし、
明治以降でも、神道系であれ、キリスト教であれ新興宗教が姿を現したのも
江戸時代という安定した時代が終焉し、
大きく時代が変わろうとした証としての一つの足跡みたいなものだと考えている。
つまりそれだけ、
今の世の中も大多数の人が、えもいわれぬ不安、
将来に対する得体の知れない危機感を抱いている証左であるのではないかと思えるのだ。
ある意味こうした現象は
混迷を深めた時代を計るバロメーターになり得ると俺は考える。
そりゃそうだよな、
守ってくれると信じていたはずの国に
年金やら公務員の無駄遣いや薬害やらで裏切られたんだから
俺たちは一体何を信じていいかさえわからなくなってるんだよなぁ。
挙句の果てに
敵は中国や韓国、北朝鮮にあるのではなく、まず国内のしかも中枢にあったのだと。
だってさ、拉致された人間がいるにもかかわらす、すなわちこの国というものの存在まで
蹂躙されたのに、また北朝鮮に大幅な譲歩を認めようとしているこの国って
一体、誰の味方をしてるんでしょうかねぇ?
情けないの一語に尽きますよ。
で、その都度政府はテメェに都合のいい税法でも何でも法律作って逃げ切るんだ。
んでもって、タクシー代やその他もろもろのくだらねぇ無駄遣いは国民につけをまわし、挙句の果ては
自己責任論を国民の前で振りかざすと、・・・
防衛省、財務省、国土交通省、文部科学省、・・・アホかッ!
防衛省って、防衛省の前に“自己”ってつけた方がよろしいんじゃないかね。
といっても、国が国民を裏切るなんてのは今に始まったことではなく、昔っからあるわけで
だまされて夢の大地と聞かされて満州やハワイ、南米へ渡った人たちの苦労といったら
その事実を体験していない俺が言うのもなんだが
筆舌に尽くしがたいものだったことは文献やメディアを通じて容易に察しがつく。
明治以来連綿と続く日本政府なんてのは平気で嘘をつくのがある種、伝統みたいなところがあるんだな。
年金記録の問題で、俺には関係ないと思っていたことが現実に起きたことで
今のこの政府なんて糞だと思うようになりました。
だからさ、俺はスピリチュアルが悪いなんて少しも思わない。
それが、その人の明日へつながる糧となるならの話だけど。
それにすべてをゆだねるのではなく、
自らの足で歩いていく杖になる程度ならなんら問題ないんじゃないかね。
(ただ、その加減が難しいっちゅうねん!)
人間なんてそんな強いもんじゃねぇんだからさ、
そんなものにどっぷりつかる必要もないけど
一時、肩を寄せる程度に助けを借りるのも有りかと思うなぁ。
(でも、創価学会の世話にだけはなりません、俺はねッ!)
俺の中でもこのスピリチュアルとかいうものを自分を成長させる
一助の類として使っている。
たとえ、嘘であったとしても自分を成長させると感じる何かがどこかにあれば
いいんじゃないかなぁ、
第三者的な視点を忘れない限り(それこそ難しいんだろうけど)
ただこれが嵌ってるってことなのかは俺自身では分からないから、
傍の人に判断を委ねるとします。
俺は、人ってさ、やはり何か目的があって生かされているんだと最近つくづく感じるんだよねぇ。
ただ、その辺でスピリチュアルとかいうものを参考にしてるだけだけど。
だって、ろくに社会に貢献してるわけでもない俺がさ、
難病に苦しむわけでもなく
(難病に苦しんでいる方に使命がないということではもちろんないです。以下同様)
これまで事件、事故に見舞われることもなく、まして
今回の地震で死んだってよかったのにこうして生きていること思うと
何か俺にあたえらられた使命みたいなものを感じずにはいられないんだよなぁ。
使命っつったって別に特別たいしたもんじゃなく、
例えば、今日やるべきことを明日に延ばす悪い癖を直すためだけに生まれてきたとか、
自分が悪いのにそれを人のせいにしたりする癖や陰口をたたいたりする癖を矯正する為に
この “ジェームズ” という人生で修行を課されているのではないかなと・・・。
まして、人の力ではどうにもできない自然の大きな力を見せつけられると
人の力なんてのは無力に近いと感じずにはいられない。
聖書の中の言葉に
『烏を思い浮かべて見なさい。種をまくことも刈り入れることもなく、納屋も蔵も持たない。
だが、神は烏を養ってくださる。』 (講談社 学術文庫 新約聖書より抜粋)
という一節がある。
うちではメダカ飼ってるんだけど、
これが2週間くらいで家の誰かが世話をしないと水が汚れて死んでしまいかねない。
餌をやらなければ2週間だってもつかどうか。
けど、川に棲んでるメダカは人が世話をしなくても常に清らかな水の中で活き活きと生きている。
(同じメダカかどうかはわかんないけどさ)
これこそ、神が顕現している姿ではないかと思う。
人が手を加えられるものなんてのはほんとにわずかなものなんだと。
謙虚に生きるとかまたは、自己の何という無力さかや、生かされているという真実に直面した時、
逆説的ではあるけれども
人は、より強く生きていけるのではないかと感ずる今日この頃だ。
貧乏であろうと、金持ちであろうとそんなことなんて
二の次なんだ
一生懸命生きること、人を裏切ることなくそして、
何より自分を偽ることなく誠実に真摯に生きることこそが
もっとも大切なんだ、と。