現代アート論・シュルレアリスム宣言 PART1
- シュルレアリスム宣言・溶ける魚 (岩波文庫)/アンドレ ブルトン
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ここ最近、どうも芸術について考える機会が多くあります。恥ずかしながら、トーキョー・アワードの観覧にも応募してみたりしました。
それはさておき、実際芸術ってどこからどこまでがそうなのかをよく考えます。
僕は、今まで映画製作と小説執筆をしてきました。どちらとも、僕にはあんまりにもなまなましい「活動」ではあったのですが、時折知人のそういった「創作活動」を見る限り、なんか距離感を感じることがままあります。
先日、アンドレ・ブルトンの著作、シュルレアリスム宣言・解ける魚を読みました。ここ最近シュルレアリスムがはやっているのと、実際シュルレアリスムがどういったものなのかを根本的に探求してみようと思ったからです。
実際、僕自身が彼の主義主張を理解できるほど読解力に優れてはいなかったので、内容自体(解ける魚も含め)よくわかりませんでした。かっこいい警句にあふれてはいるものの、結局ブルトンの絶対的な定義としてのシュルレアリスムがよくつかめなかった。
とりあえず、翻訳者の巌谷さんの言葉を借りて、シュルレアリスムについて説明すると、シュルレアリスムとは、超現実、すなわち、強度の現実のことを指すらしいです。日常に存在しているもの、たとえばそれは飛行機でもコーヒーカップでもよいのですが、それらがふっと重なり合って一つの世界を作り出すときにそれが顔を出す、ということらしいです。すなわち、今この世界をAとするなら、延長上にある現実は、A’として存在している。僕なりの解釈ですが、よくできた演劇がこの感覚に近いと思われます。
さて、ここで行われていることは、オートマトン、すなわち極限の自動筆記なる、主観の排除ですが、作品はさておき、僕自身がうすうす感じていた、サブカルチャーとは何か?ということの答えが、シュルレアリスムを探求するうちに、つかめてきました。
僕が思うに、体温が生生しければサブカルチャーで、そうでなければ芸術である、ということです。
例をあげていくと、
映画はシュルレアリスムから距離が離れている。
小説は物語や文法が存在する限り、シュルレアリスムから離れている。
演劇は、シュルレアリスムを説明することには適しているが、シュルレアリスムをすることは難しい。
音楽は、シュルレアリスムにはなりえない。
漫画はシュルレアリスムになりえる要素を十二分に持っている。
絵画でシュルレアリスムを追及するには、途方もない体力が一作ごとに必要である。
建築は、それだけでシュルレアリスムである。
写真は、シュルレアリスムを実践するうえで、選ばれる必要のない才能をもたらす。
続きはまた次回。