恋愛小説としての太陽の季節
- 太陽の季節 (新潮文庫)/石原 慎太郎
- ¥540
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「人を好きになるということ」
先日女の子に振られました。二年前に告白し、一度オーケーをもらうも、その夜やはり付き合えないと言われ、それから先日再会、彼女にいまだ好きであることを伝えるものの、ラブホテルまで行って、結局何にもやらず別れ、挙句の果てに「あのあと彼氏ができたからもう会うことがない」と一方的に言われました。泥仕合を繰り広げた後、僕は彼女から「あんたなんて大っ嫌い」というメールをもらったのです。
毎度のことながら思うのですが、恋愛はシンプルであるからこそ、難しい。人を好きになることは、どう考えても本能的なもので、それがうまくいくか行かないかは、極論を言えば、その相手のことが好きか否か、これできまる。たとえどんなことが起ころうと、どんなことをされようと、やはり好きなものは好きで、相手を嫌いになることなんかできない。それが人を好きになるということ思います。
それはさておき、この太陽の季節という作品は、アンチ・モラル小説と評されることが多いです。実際の芥川賞選評でも、その時代の尖鋭性、ないし、与えた衝撃のほうが、あまりにも多く、それが山師としての石原慎太郎という評価を招く結果となりました。彼はそのパブリック・イメージに乗っかり、以降も処刑の部屋、完全な遊戯などのアンチ・モラル小説を書き上げていきます。
しかし、その視点だけでは、どうもこの作品が実は愛すべき恋愛小説だということが、見えなくなってしまうと思います。
小説としてくりかえされる、記号としての名前の多さにお気づきの方もいると思われます。その匿名性、すなわち顔のない登場人物たちの紡ぎだされる、愛情のコミュニケーション・ブレイクダウンこそが、この作品の大きな魅力なのです。
この小説では、あまり丁寧な描写は行われません。クラブに行ったと書かれてあっても、それがどんなクラブなのかは具体的ににおいを持って表現されることはないし、台詞のやり取りにせよ、連続するかぎかっこの応酬で、その時誰がどのようなしぐさで何をしゃべったのかは明示されることはないのです。
それを評論家は、ハードボイルド小説と評価しました。これには僕も半分だけ同意です。
この小説のおおきな魅力は、それを恋愛小説に応用した、ということではないでしょうか。
普通他人が人の恋愛話を理解するためには、その人がどんな顔で、どういう人生を生き、どんな場所に住んで、どんな恋愛観を持っているのか、そういうことが重要になります。過去の文学作品もまた、心情描写や、風景描写に主軸は存在していました。
しかし、この作品では、だれがどこに行ったという背景の説明が一切ないことはおろか、その登場人物の顔も、心理も一切明かされることはないのです。作者、石原慎太郎は、これを弟石原裕次郎が聴かせた噂話をもとに、三日で書き上げられたといいます。彼は当時、公認会計士を目指し、一橋大学に在籍中でした。
この人ごと感覚、行為のみしか表現されることのない恋愛戯曲は、ある一つの事実を鮮烈に表現しました。
それは、「人を好きになることに理由なんか存在しない」ということです。
よくDVの話なんかを聴くと、なぜそんな最低の男と付き合うのかと、他人は思います。僕も友達に先ほどの話を聞かせたら、なぜそんな女にいれあげるのかといわれました。それは引き算しか存在しない、合理的に見ればあまりにも不条理な行動に思えるからです。
しかし、僕は彼女のことが好きで、それは結局、彼女に大嫌いと言われた今でも、変わりませんでした。
この小説には、そういった恋愛のどうしようもなさがこれでもかというくらい、描かれています。理由がまったく存在しない行為しか描かれていないことが、この作品における、恋愛とは何かというメッセージを、より引き立てている。それはすべて一方通行でもあり、悲劇的な結末を迎えざるを得ないわけですが、そこには、痛々しいまでにも、粋な恋愛が、きちんと描かれているのです。
最近アマゾンのレビューも含め、彼の初期作品が虐げられているのを見ると、なんだかなと思います。かつての評価と同じように、確かにこれはアンチ・モラル小説ではありますが、まぎれもなく純粋な情熱が、この作品の根底には、流れているのです。