音楽の神様(39)
瓦屋にしめされた場所には,全体に黒く少し細長い大型犬程の動物が佇んでいた。
肢体は猟犬のように美しいフォルムだが,鼻面が犬より長い。
つやつやの黒いたてがみがさらりと背を覆っている。緑に縁取られた賢そうな双眼に印象的に見つめられ,澪は会ったことのある目だと思う。
(どこか全然違うとこで…あ!)
澪が口を開こうとする前に場の空気が変わった。
きれいな風と水気を含んだ草の匂いが鼻を通った。
目の前に大きな湖が現れる。足元には濡れた芝。
ここから香坂とずり落ちていったことがあった。ついさっきのことのようで,何故か夢のように遠い記憶だ。
「椿さん…」
澪は広がったスカートを艶然とひるがえす少女の名を呼んだ。
長い黒髪,美しい長身,緑色に縁取られた不思議な色の瞳。
「椿さん,どうしてここに…?あの姿は」
「質問は受け付けてないから。それより,いい?覚悟は出来たわね?」
「な,んの…ですか?」
椿の視線が澪の後ろに向けられる。
つられて澪は振り返った。
すぐ側には島の厳しい顔。更に後ろには澪達のクラスメイトや,見たことはあるけど名前の分からない他クラスの顔ぶれがふらふらと宙を見つめて歩きまわっている。
いない。
「なんで瓦屋先輩が…いないんです?それに,品川も」
「連れて行けないわ。どっちも」
分かるでしょ,と椿は冷たく言い放った。
「なんで…」澪はうつろに問い掛ける。
「今はここに,澪の夢の入り口にいるんだから,もう分かるでしょ?」
澪は強く首を振った。島の腕が澪の肩を掴む。
島はもう分かってるんだ,と澪は気付いた。雨が降っているのかもしれない。
どんどん頬が冷たくなってゆく。
草地が風で露を飛ばして足元はびしょびしょだ。なのに,さっきから椿の髪は全く風を感じていない。
椿はゆっくりと表情を歪めた。まるで不憫だと言わんばかりに,その小さな顎にわずかに皺が寄った。
「そう。あのメガネのくそ野郎に,気付かれて皆が二度とここから出られなくなってもいいのね」
澪は更に強く首を振った。島の腕を振り払うようにして頭がくらくらするまで。視界が少し回る。
「…バカね。こうなること,勝也とかいうコはとっくに覚悟してたわ。ほら,早くここから外に出るのよ」
澪は椿を見つめた。まだ何とかなるんじゃないかとすがるような気持ちが湧く。
椿の瞳も澪を真っ直ぐに見つめ返す。緑の輪が叱るように煌いた。
「さっさと今すぐに出るのよ。何とかしてもらおうなんて浅ましい気持ちで,今すべて無駄にしてしまうようなバカなら!尚はあたしを来させたりしないわ」
もう時間がない,ということは気付きたくないけど気付いていた。
澪は観念して目を強くつぶる。
そうしたことで周りの生徒が浮かんでいく。澪の足も,いやいや草地を離れる。浮かぶように落ちるように夢から離脱していった。
取り返しがつかないことに大きいも小さいも無いと今澪は気付いた。
人の命はたくさんと少しという単位で比べることなどできない。
やすやすと歪んだ思惑にはまって,瓦屋の覚悟に気付けなかった。
ほんの少し品川の注意が逸れた隙を見逃さずに澪達を逃してくれた。
今更になって瓦屋が品川に操られないようにと,目と耳を封じた事に涙する自分が澪は許せなかった。
なんとか,長い間休んだおかげさまで,試験は無事に終わりました。
ただ,久しぶりすぎてマイパソコンが職場のものより他人じみているような。。。
あれー?