音楽の神様(36)
「そう,そうだよ。ここから戻れなくなったのは,島君のせいなんだからね…ンフー」
品川は怯えたせいで上がった息を整えるように,後半で鼻から大きく息を出した。
「なんだと,品川っ…」気色ばんだ島の顎が下から遠慮なく突き上げられる。
「島,黙って。何で?何で戻れないんだ?品川が何とかできるだろ?」
さっきだって,指を鳴らすだけで声を遠ざける事をやってのけたのに。
澪の隣で香坂がコクコクと頷く。澪は香坂の重い腕を外した。
品川は何の傷も無い左頬をわざとらしく撫でて言う。
「さっきのはほんの先延ばしさ。やがてまた歌はこちらに気付き戻ってくる。」品川は薄く笑った。
「僕はね,孵化したばかりの稚魚のようにヒヨワなんだ。メダカの学校にもまだ通えないほどに」
「…ん?…おお」澪の眉間に軽い皺が寄る。
香坂が重なり合った机と椅子に溜め息をついて寄り掛かり,バランスを崩した机と共に転がる。
「おわぁぁ」
澪はちらりと香坂の居たはずの場所を見てから
「うるっさい。はい,はい。それで何だって?」品川にうろんな光を宿した視線を戻した。
「その繊細な身体を持つ僕の清廉な意識は今ここにある」品川の酔った声は,うっとりと自分の世界に潜っている。
澪はいちいちイライラしないと思いつつ,感情を抑えて聞いた。
「だから,それどーいう意味?」
品川は不気味な事に自分を抱き締める素振りで大袈裟に嘆いた。
「おおお,僕の可愛い肉体は僕の意識をいとも簡単に手放してしまった。なんとかよわき愛しいホーム!そう,しばらく僕はホーム=マイ・ラブ・ボディには戻れない…つまり,ここから出られない」
分かったかな,お馬鹿な子猫たん,と品川が涙目で首を傾げる。
「魔女が持ってきた毒リンゴは,もう目の前にある。そして,僕等にはそれを食べる道しか残っていないのさ…クフフフ」
澪の足元がフラついた。
「奥晴,やっぱり殴っておこうか?」
島の声が澪の頭上から聞こえる。
「やめよう。今,俺のほうが殴られたみたいに目眩がするんだ…これ以上の暴力に耐えられる自信ないよ」
澪は力無くそう言って島の肩にもたれかかった。