⑤分からなかった謎々


 全部が夢ならいい。

今日,聞いたこともそれで思い出したことも全て夢であって欲しい。

なのに,夢だったら,と思う事は現実で,本当であって欲しい事は願望の見せるまぼろしなんだ。


 母は重そうな鞄と気持ちを抱えて妙に明るく玄関を出て行った。

母は何も言わず行ってしまった。僕は何も訊かずに堂本氏実父説を自問自答している。

どこか似ているだろうか。

眉?耳?目?それともカップの内側には映らないお腹や背中,足の指の形なんかが似ているのかもしれない。

 喜美さんは僕の前に白湯を置いた。隣には不ぞろいな白い金平糖が,藤色の猪口に山盛られている。

熱が高い時,僕は蟻のように星屑のような糖分と,生温い水分を交互に舐めて生き抜くことにしている。

動物の描かれたマグカップを両手で包むとくすぐったい温かさが手の平に広がる。

僕がカップを包んで中を覗き込んでいる間,喜美さんは不思議な落ち着いた笑みを浮かべていた。

僕は背を丸める。

「何?」なぜか落ち着かなくなって子供っぽく訊いてしまう。

喜美さんは自分用のマグカップに小鍋からホットミルクを注いだ。

予言です,と喜美さんは呟く。

「今日,坊ちゃんは夢を見ます」

僕が見ているのを意識しているのかいないのか,喜美さんこそ夢見るような瞳で言った。


 夕暮れを走っている。もうすぐ日が落ちる。

これは夢だという感覚と,なのに息苦しくて本当っぽく感じる追われている感覚。

さっきベッドに入ったじゃないか。僕は自分に言い聞かせる。なのに

止まれない。

だけど引き止めて欲しい。後ろを振り返りたい・・・振り返りたくない。

僕はどうしたい。どうしてほしい。

知らない!僕は僕は,考えない!

走って走ってこの弱い体を壊してしまえばきっと何も考えなくて・・・

―――高架下が見える。あの暗がりまで走ろう。

土手を滑り降りて河川沿いの砂利道にコケそうになりながら,それでも走った。

息が上がる。視界が滲む。

夕暮れと薄闇が混ざってぐわわん,零れ落ちる。

ふっと頭上が暗くなって,待っていたかのように轟音が真上から直に落っこちてくる。

車輪が線路を力一杯掴んで進んでいく音は,両の耳から入ってくるようで両の耳から抜けていく。

ぐラア。足元がふらついて背中から乱暴に抱きすくめられた。

すぐに抵抗するつもりで腕を振り上げる。いやだ。

めったやたらに振り回してもべちん,べちん力無く腕が当たる音は電車に消されてしまう。

無駄に思えてくる。急に寂しくてどうにもならない気分で涙が目の中いっぱいに湛えられる。

喉がヒューっと鳴いて冷たい鉄臭い風が肺にどっと入り込んでくる。

げほげほ,やだ,やだぁ!こんなのやだーーー

僕は背中に縋って滑り落ちようとしてるのか腕から逃れようとしてるのか。

分からなくなってただ泣いて叫んで,叫んで振りほどこうとして,やだを繰り返し叫んだ。

頭が熱くなって涙が溢れてツーンと脳の奥が痛い。

列車が通り過ぎると耳がぼわぼわして高い音が鳴っている気がする。

しょっぱくて喉が痛くて草の匂いと夜の匂いが鼻の中で夏の匂いになる。

弱々しく振り回される細い腕が僕に追いつくために走って冷えた腕やお腹に当たる。

泣いて泣いてどうしようもない僕を,母の腕がそれでもしっかり抱き締めていた。

こんなのやぁだーよぉぉお

嘆きながら幼い僕は口に出すのも怖くて出来なかった。こんなの。

泣いてる途中,白くなって何で泣いてるのか分からなくなって力尽きた。


 忘れられないことを思いだした。

あの日から僕と母の間には,血の繋がりがないってことを認識させられたんだった。

体中のどこからも全身汗まみれだった。

布団は掛けてるものも敷いているものもじっとり湿っている。

今かいた汗はペットボトル何杯分だろう。

僕は起き上がって膝を抱える。力がうまく入らない。

夢だった。

情けないことに涙が止まらなかった。

あれは全て現実にあったことだから。

よく慣れた暗闇の部屋で震えた。夢で良かった。


 また寝入ってしまったようだった。

草の匂い,夜の匂い。風。戻ってくる風景。

吹いている風は冷たい。だけど綺麗で母の匂いがした。

僕が母の胸の上から起き上がると母が優しい顔で見上げているのが見えた。

まだ僕は寝ぼけている。何があってこうなったのか思い出せない。

何で土手で寝そべっているのか。

「この空の下,星のもと,橋の屋根町一丁目一番地,母の腕の中。これなーんだ?」

母が明るい声でなぞなぞを出す。なんの謎々だったっけ。

僕は何も考えていない目で母の瞳を見つめた。母は目の縁が赤くなっている。

「尚の生まれた場所。尚と出会った場所。尚が居てくれなかったら今,この母は存在しないって知ってる?」

すっと意識が戻ってきて僕は母の顔に釘付けになった。

動揺した。

大人になったら泣かないって思ってた。声も出さずに,すごく強いのに。

母が泣いている。僕は草の汁で汚れた手で母の頭を撫でた。

強い母が泣いている。

悪いことをした時に感じる嫌な気持ちがいっぱいに広がって胸に刺さった。


 続く  <>

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