あな…憎しや…
お主の憎いものは…我も憎い
崖に泥の乾いてきた背を預け,しゃがみこんで虚ろに雷雲が蠢く空を見上げていた澪はピクリと身を竦めて周囲を見回した。どこからか呪う言葉が湧き水が地に染み出すように聞こえてくる。
憎むだけでは足りぬ…我は許さんぞ…
倭は憎い…こんな姿に陥れた人が憎いぞ…
我は許さぬ…我は許さぬぞ…
このままでは済まさぬぞ…人よ!!!
(2人いるの…?)
澪は,おそるおそる大きな岩の前方へとまわり込んで岩に体をはり付けた。その間も声の主は怨念のこもった言葉を止める気配も無く連ねている。物凄く近く聞こえる事もあればボソボソとしか聞こえない程に声は安定しない。余程,2人は近い位置で会話をしているのかもしれない。
人を憎む生き物に今,見つかったらどうなるだろうか。
(でも,せめて少しでも何者か見ることが出来たら何の七不思議か皆に分かるかもしれない。)
あの場所に帰る希望は捨てたくなかった。もしかしたら,こちらに来ているのが澪だけではない可能性だってある。誰にしろ逃げ出したりするようには思えなかった。澪は恐怖と期待をないまぜにして岩に背中をくっつけたまま声のほうへと音のしないようにゆっくりと近づく。
誰じゃ!
澪の背筋に緊張が走る。じっとしてどこから声が来たのかを探ろうと首だけを伸ばす。
我等の声が聞こえるのか娘よ
澪は身構えた。どうやら向こうからは澪の姿がはっきり捉えられているようだ。またも蜘蛛のように見えない相手なのだろうか。
背を向けているのは己のほうぞ
声が澪の体に直接振動する。
澪が背中越しに誰かいるのかと覗きみても岩が邪魔で何も見えない。澪は目を細めて訝しげにきょろきょろと岩の上にも目を向けてみた。何も無い。声がここだ,と呼びかけてくる。何者も近づく気配は無い。澪は,もう一度目を凝らして岩の向こうへ目を向けようとした。
「どこ…?…なっ!!」
鈍い人だな左顔(さがん)よ
詮無きことよ右顔(うがん)の,ここに居る時点で‘気づかない愚か者’だと札を貼って歩いているようなものだ
岩の窪みにも見えたそれは,日本猿の頭ほどの2つの頭蓋骨だった。ピタリと岩に嵌っていて気づかなかったが,よくよく見ればそこだけが妙に白く浮き上がって見える。その頭蓋骨の首から下は更に妙だった。
胴が1つしかないのだ。2つの首が据えられた胴体は未成熟なのか随分小さな体に見えた。この体躯では頭を支える事など出来そうも無い。澪がしげしげと観察していると暗いだけの眼窩が4つ澪の顔に向いた気がした。
微動だにしていない白骨から威圧する空気だけが澪の肌に伝わってくる。
鈍いだけでは飽きたらず礼儀もわきまえておらぬな
全くだ…人というものは知恵も足らぬくせに要らぬことばかり思いつくもの
我等をこの姿にした輩のようにな…
憎い…いっそ娘を誰ぞの望み通り喰ろうてしまえば,さぞや気分も晴れ渡ろう
しかし今の倭に何が出来ようぞ…せいぜい言葉を繰るだけの岩ではないか
そう言うなり2つの首は又,呪詛のような言葉を繰り返し始めた。
「貴方がたは…一体?」
澪は気位の高そうな頭蓋骨に少しへりくだって尋ねてみることにした。我等か…と喋り出したのは澪から見て左側の顔だ。少し額が出ていて口元は怒ったようなまま骨と化している。喋ると岩が震えるが左側の方が大きく顕著に出る。こちらが右顔と呼ばれている方だろう。
我等か…我等は天狗よ
このような姿に成り果てるまでは界隈で知らぬ者などおらんかった
天狗は交互に喋るくせがあるのか今喋ったのが左顔と呼ばれている方だ。額は狭く目と鼻の距離が近い。声は多少弱いのか石はあまり震えない。顎が出ているのが特徴的に見えた。しかし,どちらも本当に天狗かどうかは骨だけでは良く分からなかった。鼻はもげてしまったのか人間の頭骨と変わらず穴のみ穿たれている。
それを言うなら左顔よ,もう人も我等に祈りを捧げんと思っておったわ
そうだな右顔よ,朽ち果てる人を見ているのは悪くない余興かもしれぬ
ああ,変化は何百年ぶりか
翼を皮膚を奪われて倭は力を失って動く事もままならぬ
何百年ぶりか憎い人の姿を見るのは
どんどん話の雲行きが怪しくなっていくのを感じて澪は違う質問をしてみた。
「ここはどこなんでしょうか?」
ここは,どこへも行けぬ場所
倭の造った要塞よ
血塗られた己の名が唯一の入り口
そして唯一の出口
分からぬであろう人には
愚かであれば尚の事
2つの首は笑い出す。嘲るように澪の胸のうちを見透かすように言い刺した。
何でも聞くが良い。答えてやろう
ああ,どうせ出れぬのだからな,哀れなものよ
朽ちて骨となるまでここに居るがよい
澪は強い風の吹きすさぶ中,嘲笑されながらも首に質問を続ける。カチカチと歯が噛み合わない音を立て唇が冷たく乾いていく。
「貴方がたをこの様な目に合わせたのは誰ですか?」
2つの首はピタリと黙った。澪は首を傾げた。
首は答えようとしない。
「あの…」
分からぬ
人であったが思い出せぬ
それ程に時が経った…ただ強き力を持っていた
いや,しかし所詮は人。石が無ければ我等とてこのような姿に堕ちずに済んだものを
待て右顔の。力とは言うても地の鉱石は人ではないのではないか
ああ左顔の。地の鉱石は人ではない
ならば小さき者が緑の布を身に付けていた
そうだ貴奴め黄土の髪をしておった
まるでこの居にそぐわない風体をしておった
「黄土…緑の服?」
雷鳴が遠のいていく。雨は上がりそうな気配を見せていた。
白い着物を纏った髪の長い童もここへ来た
すぐに去った
我等にかけられた戒めを切って
そのおかげで我等は何百年かぶりに地に降りた
澪の脳裏に蜘蛛に絡め取られた際に会った少女が浮かんだ。あの少女は人間ではないのかもしれない。
「この崖の上からは何が見えるんですか?」
行かぬ方が良いぞ
そうじゃ今すぐでは我等も楽しみが減る
絶望するには早い
天狗は早口で口々に止める。その様子に澪は迷う素振りを見せてパッと身を翻すと体をさすりながら小雨になったぬかるみの道に走り出した。崖の頂上を目指して走る澪を,後ろから声だけが追い掛けてくる。ますます音量を上げて雨にかき消されもせずについて来る。やがて恨みのこもった言葉が澪に向けられてゆく。背中で振り払うように中履きを履いた足を高く上げて速度を出す。木が視界の隅で流れていく。長い坂道を力任せに登っていく。
髪についた泥が頬に当たって弾けて飛ぶ。息を吸って吐く。その度に心が後ろへ向きそうになる。
誰かを偲ぶ気持ちを認めてしまえば情けない気持ちが胸から口へ溢れでそうになって苦しい。
座り込んで塞ぎこんでこのまま身勝手な自分を捨ててしまう方が良い気がするのも本当だ。
けれど,もう一度会いたいと思う気持ちがあるから澪は今走る事が出来る。会いたい。それは兄だけではない。そう思うと,どちらかを選べない自らの弱さが歯痒い。そうして自省しているはずなのに空を見つめて居る間,天狗に出会うまで一体どうやってここから出て帰るかばかりを考えていた。ぶつかり合う気持ちが平行線のまま体は崖を登っていく。
(天狗が嫌がるなら何かしらきっとある,この上に)
そのことだけに意識を集めて痛みの走る腹も背も心の外に置き去る。雨が止んで空の雲間に日が差し込む。光のベールが遠い空を包んでいくのを美しいと感じながら澪は坂を登りきっていた。
