傾いた夕暮れを浴びる生徒会の寮に着くと,その前で養護教諭の岡が腰を曲げて地面を見ながらウロウロしているのが見えた。島と澪が先生,と近づくとひきつった表情で慌てたように手を振り動かしながら,何でもないの,とそそくさと校舎の方へ戻っていく。何度も長い白衣に足をとられてつんのめりそうになりながら岡がこちらを窺うように振り返る。澪達と目が合うなり,さっと視線を外し駆け足で曲がり角に消えた。
「何アレ?」
瓦屋が眉間に皺を寄せて興味津々で寮から出てくる。どうやらずっと岡の様子を観察していたらしい。
「ああ見えて岡ってまじめだからなー。あのフェイク女装も生徒の煩悩犯罪抑止するためだし」
「え,フェイク!?」
瓦屋が,身を乗り出した澪の鼻を人差し指で弾いた。
「スキありー!俺の調べでは,あいつ既婚者,しかも子供1人居るし」
鼻を抑えてピンポイントの痛みに耐える澪に瓦屋が上から満足げに微笑んで言う。間髪居れず,島が澪の頭を持ってズルズルと玄関に入っていく。澪は歯を噛み鳴らして,もう少しで自慢気に振りかざす人差し指に噛み付けたのに惜しかったと心の中で舌打ちした。ロビーに入ると東尾がソファで頭をもたげて眠っていた。良餡が隣で大人しくノートを広げて何かを書き付けている。2人とも私服に着替え東尾は茶と黒のストライプのシャツと黒いジーンズ。良餡はグレーのパーカーを羽織って黒いTシャツ,カーキのカーゴ半端丈パンツを穿いている。黒のスニーカー用ソックスが良餡の足元を可愛くみせる。くつろいだ格好をしているということはすでに今夜の作戦は立てられているようだ。
(あれ,冬木先輩…)
澪が冬木の姿を探すと冬木は窓際に佇んでいた。こちらを夕日が横顔に当たってこちらからは表情は見えない。
「めずらし,何書いてんの?良餡」
島がノートを覗こうとすると良餡が両手で素早くページを閉じる。
「へへー秘密ぅ。じゃ,澪,後でねー」
そう言うと良餡はノートを抱えて立ち上がり自室に戻っていった。島は良餡の行動に意外そうな顔で,しかしすぐに納得したように頷く。
「とうとう良餡にも春が…」
島の独り言は聞き流して,澪と島も鞄を置きに一旦3Fへ上がる。
階段を昇っている最中に澪は立ちくらみで目の前が暗くなった。ああ,倒れる,という事以外に何も思わなかった。ぐらり,と細かな連続で振り子のように頭が振れる。止まらなかった。
落ちる――
次の瞬間には背中に違う感触があった。痛くない,だけでなく安心感。
「アブね」
焦ったような声が真上から聞こえる。見上げると島の呆れたような顔が近くにあった。(え?)戸惑い首を戻すと澪の膝が目線上にあるのに気がつく。
「きゃ,うわっ。島,降ろせよ!」
「俺だって野郎を抱っこする趣味は無い」
澪は,そのセリフを聞くやいなや島の頬をペチンと叩いてしまった。
胸から込上げてくる堪えきれない恥ずかしさで頬が上気している。パッと顔を反らして島の腕から飛び降り
「頼んでねーよ!」
と言い捨てて自分の鞄を拾い上げるついでに島の鞄まで抱えて部屋に走って逃げた。ドアを閉めて鍵をかける。
そのドアに背をつけたままズルズルと滑り落ちる。
「なに,ちょっと…もう何やってんのー…?」
自分の行動についていけない。助けてもらったのに。(ペチンて…捨て台詞まで…何しちゃってんの)自己嫌悪と恥ずかしさの渦の中で澪は溜め息と共に吐き出した。
「…だって,女の子なんだけど…」
ただそれだけだ。なのに,どうしてこんなに苦しい気持ちになってるんだろう,澪は暗くなっていく部屋の中で高鳴る胸の鼓動を鞄を抱き締めて抑え付けていた。
夜までは長く感じた。東尾が夕飯に呼びに来るまで澪は床の上を転がりながら島にどんな顔を合わせればいいのか悩んでいたのだ。澪はのろのろと私服に着替えて下に降りる。今日は緑と白と茶のチェックのシャツを茶のTシャツに合わせた。Tシャツは襟とロゴだけは水色だ。ボトムに麻のベージュのパンツを穿いている。
顔を笑みで引き攣らせながら食堂に入ると島と冬木それに瓦屋の姿は無かった。良餡がハンバーグを頬張っている席の隣に腰掛ける。
「はふ,澪,へいひ?なんらキイロとケンふぁしてなふぁっら?(澪,平気?なんかキイロと喧嘩してなかった?)」
「ケンカなんか。俺が一方的に悪いと思うし」
ふーん,ともぐもぐ口を動かして良餡が分かったような分からないような声を出す。
「なら,キイロが機嫌悪いのは奥晴のせいか」
木津が緑黄色野菜サラダをフォークで口に運びながら新聞片手に茶々を入れてくる。
「仲が良すぎるのも悩みが尽きないねー」
「木津先輩,笑い事じゃないんです」
チラと新聞から木津が顔を上げてニヤニヤとした目が覗く。からかっているのは明らかだ。食卓の電灯が木津の顔を暖かい色で染めている。そんなに辛いのか,可哀想になどとオーバーに嘆いて,澪に流し目を向け艶かしい口調で木津が囁く。
「俺が記憶…消してあげようか?奥晴」
「け,結構です!」
木津の言葉で鮮明な記憶が引き出される。ガタンと椅子を引き澪は東尾がいるキッチンの方へ自分のハンバーグを取りに行く。木津の笑い声が後ろで聞こえた。
「ん,どうした?奥晴。熱でもあるのか?」
東尾がご飯をよそってトレーに茶碗を置く。澪の食事の用意をしてくれているのだ。
「ヒガ先輩,ありがとうございます。今日の俺,どっか変なのかも…」
赤い顔を両手ではさみながら澪は東尾の側で落ち着こうと深呼吸する。ほんの2ヶ月前に受けた衝撃がまだ残っている。
まさか,あんな方法で記憶を消すなんて思わなかった。あの木津が目覚めた水泳部員にいきなりそんな…
「澪ってキスしたことないの?ほんと?」
良餡が口の周りにデミグラスソースを付けたままキッチンにひょいと顔を出す。
固まる澪の後ろで東尾が大きく息を吐いて,つかつかとキッチンを出て行き木津の頭をひっぱたく。
「良餡になんて話してるんだ?おまえは」
「高校3年生ならするだろ,というかもっと進ん,イタ!グー痛いって!ヒガ」
東尾に木津が殴られていると冬木が,食堂に顔を出す。校舎の方は準備してきた,と短く言ってその足でキッチンに入ってくる。
「奥晴,俺のスープもよそって」
「は,はい」
冬木は薄いピンクのロゴ入りTシャツに黒の丈の長いカーディガンを羽織っている。ボトムは細身のジーンズだ。てきぱきとハンバーグを3つ,皿に取り分けている。澪が不安な顔で冬木の分のスープカップをトレーに置くと案の定,声がかかる。
「瓦屋のも,あと島が着替えてから来るから」
「…はい」
澪にとって気まずい晩餐になったのは言うまでも無い。
あの時に謝っておけばよかった。
澪は現実逃避からか歩きながら後悔していた。廊下で馬を捕まえる後一歩というところで澪は腕を強く引っ張られて尻餅をついた。
誰にかは分からない。しかも,周りの景色が一変していて今はここがどこかも分からない。森だということ以外は不明な場所にいる。学校の敷地内なのかもしれない。ただ,見える範囲で今とりあえず目指しているのは大きな崖だった。他には目指すものが無いし高いところに登りさえすれば何かしら建物が見えるかもしれない。
近づくにつれ崖の中腹にとてつもなく大きな石が嵌っているのが見えた。
石の形状から自然の力とは思えない。しかも石に巻かれていたのか白い布が夜風にはためいている。
薄い雲から光がかろうじて届いているのでそこまでは分かる。
ゴロゴロ。
(ん?)
澪の頭上で怪しい音がする。嫌な予感に空を仰ぎ見る。
ぽつ,と頬に水滴が当たる。ぽつぽつ…
バッシャー!
「嘘でしょー!?」
誰に言うでもなく叫び,激しく振り注ぐ雨の中を澪は崖に向かって走り出した。雷が轟き辺りの闇を閃光で照らし出す。
石の中央に窪みがあるのが澪の目に映った。
