1Fと表示されたプレートが見えたが,澪は悩みに気を取られて全く意識していなかった。階段の位置から食堂は見えないがコーヒーの良い香りが漂っている。それすらも蚊帳の外に置いて足だけが階段を降りていく。
「おはよー!!」
その声と共に澪は後ろから腰に飛びつかれた。背中を押される形になってバランスが崩れ階段から足を踏み外しかける。
「わぁぁッ!」
澪は叫びながらも咄嗟に手摺に掴まり危うい所で持ちこたえた。腰に回された腕を払いのけて振り返る。
「奥晴 澪でしょ。昨日は会えなかったけどアキロンには聞いてたんだー。ボク,西城 良餡(さいじょう りょうあん)ていうの。あのネ,餡子が美味しく作れますようにってパパが付けてくれたんだ。だから,リョーアンて呼んでね。宜しくね。」
注意しようとした澪の意識を削ぐように,にっこりと微笑む顔は眩しい位に可愛い。兄から聞いてはいたが生徒会副会長・老舗和菓子屋の一人息子は人懐こく天使のような顔をして澪を見つめている。栗色の髪はショートを毛先だけ遊ばせて前髪は眉に届かない程に短い。綺麗な眉根が柔らかく丸く二重の目の端はあどけなさが残っている。ちょっと高い鼻筋の先には,ほんのり色づく薄桃の唇が小さく品良く開いて澪の名を呼ぶ。
「ねね,奥晴のこと澪って呼んでも良い?」
「は,はい。」
良かったー,と良餡は両の手の平を合わせて喜ぶ。冬木とは違ったタイプのオーラを放ちながら澪の手をぎゅっと握って不思議そうな顔になる。
「えっと,澪って吹奏楽じゃなかったっけ?」
「そうですけど…」
「ふうん。ちょっと意外かも。」
最後の一言を良餡は独り言のように呟くと2人は食堂へと手を繋いだまま向かった。
澪と良餡が食堂に着くと丁度,東尾が出て来るところだった。
「おはようございます,東尾先輩。」
「おはよう,奥晴。昨日は大変だったな。よく眠れた?」
東尾が優しい笑顔で澪の顔色を気づかう。澪は頷きながらも東尾が急いでいる様子なのが気になった。
「おはよー,ヒガ。今日,早くない?」
良餡は澪の手を離すと東尾の腕にピトッと張り付いて上目遣いに見上げる。小柄な二人がくっついている所はなんだか微笑ましい。
「ああ,ちょっと。今…良餡も奥晴と後で来てくれ。」
「何かあったの?」
バーンと正面玄関が開く音がして瓦屋の声が飛び込んできた。
「外,ヤバイ臭いですよー!東尾先輩。マスクしてきた方が良いッスー!」
良餡がテテテーと走って正面玄関に出て行く。澪も後を追いかけようとしたが,東尾に腕を掴まれて食堂のイスに座らされた。眩しい日が出窓から差し込んで明るく室内を照らす。奥のキッチンに人の居る気配は無い。
大きな食卓にはパンの入った籠と野菜の盛られた大皿,スクランブルエッグとハムが平皿に載っている。
「ご飯は食べなきゃダメだ。いいね?」
クロワッサンとスクランブルエッグ,サラダが東尾の手で手早く皿に盛られて澪の目の前に用意される。
何故か有無を言わさない響きを持った東尾に言われるまま朝食に手を付けた。
「ふわあー,おはよー。おっ,奥晴じゃん。蜘蛛キライなんでしょ?」
「答えなくていいからゆっくり食べなよ,奥晴。木津,おはよう。昨夜はどこに行ってたんだ?」
「えー,まぁ良いじゃん。女の子が好きだって言ってくれるうちはさ。」
長身の髪の長い男が制服の前をはだけさせて気だるそうに食堂に入って来る。東尾が眼鏡の縁を光らせて詰問しようとするや慌てて脇をすり抜けて冷蔵庫からパックの牛乳を持ち出して行ってしまった。
後には香水の香りが甘く残る。木津 尚(きづ しょう)は他校生にも有名な生徒会の外交担当だ。
本来は書記なのだが誘うような目,浅く穿いた制服のズボン,身に付けているアクセサリーは全て貢物という噂もある。ゆるくウェーブのかかった髪が北欧系の顔立ちを際立たせてセクシーだと老いも若きも女性の支持率が高いらしい。これで生徒会の全てのメンバーが出揃ったはずだ。
「全くアイツは…。」
東尾が困った顔で木津を見送るのと入れ替わりに瓦屋が慌しく入って来る。
「何してるんすか,東尾先輩!まだメシ済ませてないんですか?!もうイイじゃないですか,こんな時に一食くらい!」
「瓦屋,走りこむな,っていつも言っているだろう。」
チラリと澪の顔を見て瓦屋が嫌な顔をする。
「なんだ,お前のせいか?こいつより,プールが大変なんすよ?東尾先輩。」
澪は瓦屋に向かって思い切り嫌な顔を仕返して東尾の出してくれた朝食を口に詰め込む。
「こーら,慌てるんじゃないの。瓦屋もだよ。お前がバタついても仕方ないだろ。」
「こっちだって,冬木先輩が呼んでるンスよー。」
東尾はため息をついて澪の皿を流しに付けるとコップに注いだコーヒーと水を頬張ったままの澪に手渡す。
「先に行っているからプールにおいで。」
来なくても良いけどな,と瓦屋が呟くのが聞こえたが澪は聞こえないフリをした。
「何があったんですか?」
「屋内のプールで水泳部の一人が練習中に渦に飲み込まれたんだ。その後から水が濁ってとても近寄れる状態じゃないらしい。」
瓦屋が引き継いで言う。
「凄い渦ですよ。やっぱり昨日の招待うんぬんてヤツ関係あるんじゃないですか?」
澪の目が大きく見開く。東尾の顔にそのまま目を向けると否定はせずに澪の顔を見つめ返す目があった。
続く
