宗教って昔から、釈迦、役行者、空海、最澄、親鸞、老子、孟子、 エホバ、ヤはウエ、キリスト、アラー、モハメッド、ババジ、ヨガナンダ、マイトレイヤー、エロヒム、サイババ、サナンダ、ラムサ、バシャ-ル、 出口王仁三郎、岡田茂吉、麻原彰晃、大川隆法、相川圭子、上江洲義秀、etc、、、、 私が興味をもって知る限りでもまだまだたくさんあります(笑)。
あれ、、。
近頃でも、悟るために救世主(客体)を説く聖者や覚者やカリスマや聖書や聖典、マザーテレサ愛の言葉、幸せの法則、引き寄せの法則、神は友達、奇跡の実現法、思考は実現する、癌消失、美容、健康法、奇跡のダイエット法、etcといろいろありますけど、、、。
これもパクリで姿と形を変えた最近の宗教ではないのか?。
いくら覚者やカリスマ、聖書、聖典等、バイブル、が示すところの、有難い救済のお導きに従って日常を修行したり、戒律(禁止事項)を守って過ごしたとしても、
真の神に近づくとして、神通力(一時的、部分的な変容?)をステータスとして自己実現を求めている時点で、主体が喪失してしまう(自身がマヌケになる)ため、
どこまで修練や修行という日常を極めても究極の目標の悟りに到達することは不可能と言うことは明白です。
今、ここにある現実の出来事や問題に対処するにあたり、出来るとか出来ないとか、正しいとか間違いとか、盲信(肯定)したり、批判(否定)しているうちは、宗教(客体)に囚われた状態であり、誠の行動ができないのです。
聖書、聖典、覚者の導くところの真実の神とか、唯一の神とか客体を崇め求め近づこうと修行してもどこまで行ってもも紙一重で悟ることは出来ません。
要は、この世に生まれた時点が修行の果であり、今であり、すでに自分=自神一重(主体)であることを感じ、気付くまでは宗教(客体依存)は卒業出来ないということが私の結論です。
今、この現実で自分が神として、全人類、一凛の花、草木、全宇宙の全生命を自分として自覚し、感じることが肉体の五感でできるのか?。
ある覚者が、五感を超越した神の意識に到達しました(宗教確者の教義)と言ったとしても、無限の意識を有限な意識で感じることは不可能なことであり嘘っぱちであることは間違いありません。
ある日本の絶対覚者(上江洲氏)は、「瞑想によって、神との一体意識に到達した人はまだまだです、感じている自分がまだいる、その向こうに静寂という無の境地があります」とおっしゃっていますが、自分もまた同じ事を言っていらっしゃることには気づかれないようです。
結局、神仏が存在するとか、神仏になれるとか、神仏の境地に達するという理論は想像の概念であって、現実には存在しえない空論であり、泥棒の始まりであるとは明白です。(笑)
※なんか収集がつかなくなってきたので、そろそろまとめ(汗)
結局、人生における今、この日常に起こる出来事にたいして肯定や否定を語る、理論や理屈に追従するの行為や行動は、たとえ真実であり、正義であり、神の導きであると笑顔で言われたとしても、理屈に囚われて行動するなら、すでに乖離性マヌケ症候群です。(笑)
ジシン(自神)に満ちた誠のイノリ(意乗り)は理屈に囚われることはありません。
ただ、素直に在る、今、この一瞬がすでに自身が創造した究極の奇跡なのですから。
たとえ、、、。
自分の気持ちが憎しみに囚われていても、
怒りに囚われていても
悲しみに囚われていても
自身のイノリに誠に在りさえすれば
善も悪も、喜怒哀楽も関係なく、
全生命に公平に与えられている完全自動宇宙創造システムにより、
仏教で言う所の、究極の悟りの境地へ一瞬で到達することは間違いないのではないでしょうか。
