風に散らされた桜の花びらが、季節の移ろいを告げているような日だった。
仕事用の革靴の靴底はすり減るのに、腹の肉は落ちない。
歩き疲れた僕の前に現れた道端のベンチ。
僕はベンチに座る。「ふぅ。」と言いながら。誰にでも聞こえるボリュームで。
腹の肉もベルトの上に腰かけた時に、僕の横に彼と彼女も腰掛けた。
僕は携帯を開く。彼と彼女は気にはならない。メールを開く。すぐに返さなくてはいけないもの、会社に戻ってから対応をすればいいもの、無視だ無視!こんなもの、の3種類に分類する。すぐに返さなくてはいけないメールの数を見て、僕は「はぁ。。。」と言う。こぼれたというよりも、こぼしたが正しいくらいのボリュームで。
彼と彼女は喧嘩を始める。だけど僕は、彼と彼女は気にならない。携帯でいちいち打っているのが面倒臭い量のメールを確認したから、僕は鞄からパソコンを取り出す。メールを返す。ひたすら返す。だから僕は、彼と彼女の喧嘩が気にならない。
僕はメールを返す。彼と彼女の喧嘩がだいぶ熱を帯びてくる。すぐに対応をしなくてはいけないものの対応が終わって、次は会社に戻ってから対応をすればいいものの対応も「どうせなら」という感覚で返し始める。パソコンに向かうフェーズが一つ下がった。だから彼と彼女の喧嘩が少しだけ耳に入ってくる。
「別れたくない。」彼女は言っている。
「別れる。」彼は言っている。
「別れたくない。」彼女はまた言っている。
「別れる。」彼はまた言っている。
いくら時代は進んだからといえども、別れ話はリモートでやりなさいよ、なんてことは思わない。だけど、街中のベンチでやるものかね、とも思う。
「結婚するんじゃなかったの?」彼女は言っている。
「結婚するつもりではいた。」彼は言っている。
僕はパソコンを眺める。だけどほとんど見ていない。彼と彼女の別れ話に全神経を集中している。だから僕は、メールを全く打っていない。
「謝るから。考え直して。」彼女は懇願している。
「何を謝るの?何に俺が怒っているか分かっているの?」彼は問いただしている。
僕の携帯が鳴る。勤務先の社長からの電話だった。僕は無視する。だから、そのくらい彼と彼女の喧嘩が気になっている。
「私がわがままばっかり言ってたこと。」
「たとえば?」
「あそこ行きたい。あれ食べたい。なんで休み合わせてくれないの?とか。」
「うん、それから?」
「すぐに、構ってくれないとか、優しくしてくれないとか言ったりしたこと。キー君は全力で頑張ってくれていたのに、ガマちゃんはいつもわがまま言ってた。ごめんなさい。」
僕は驚いている。年齢を尋ねたわけではないので分からないが、明らかに大人になってから結構経過している彼は「キー君」で彼女は「ガマちゃん」だった。
由来が気になる。何をどう議論して、キー君ガマちゃんはこの世界に生まれたのか。
「俺はね、そんなことを怒っているんじゃないよ。」キー君は諭すように投げかけた後に言葉をつなげる。「ガマちゃんをわがままなんて思わない。外食大好きなくせに、お金はいつも払わなくても。それでいて、なんでいつも同じ店ばっかり連れて行くんだって言われても。休みの全てはガマちゃんに捧げているけど、それでもガマちゃんに全く構って貰っていない、と言われても、俺はね、そんなことどうでもいいんだよ。」
僕は再び驚いている。明らかに怒るべき事象が並んでいるのに、そこに怒っていないキー君の懐の深さに驚いている。そしてこんなに怒らないキー君に、ガマちゃんは一体どうして別れを決意させたのか疑問を抱いている。
「じゃあなんで別れるの?」ガマちゃんが僕の心の声を言葉に変える。
「ガマちゃんさ、俺が買った黒い靴、馬鹿にしたでしょ?あれがどうしても許せなかったの。」
僕はこの日1番の驚きを見せている。
金は払わないくせに外食に行きたがっても、それでいて毎回同じ店だと文句を言われても、休みを全て捧げてもそれでも足りないと言われても怒らないのに、黒い靴を馬鹿にされると怒るのか、と驚きを見せている。
「そこぉ?」ガマちゃんが僕の心の声を再び言葉に変える。
「悩んで買ったんだよ。それを「えーゴツい。」って言った後に鼻で笑ったでしょ?それが許せなかったの。なんか黒い靴が惨めになったの。このままガマちゃんと一緒にいたらいつかその靴みたいに馬鹿にされるのかなって思ったら、ガマちゃんと一緒にいられない。」
「そんなことないよ。ごめんなさい。もう絶対に馬鹿にしたりしない。ごめんなさい、悩んで買った靴を馬鹿にしたりして。」
「いつかね、絶対に俺はあの黒い靴になるんだよ。蔑まれる。使われてばっかり。尻に敷かれる。自分のやりたいこともどんどんやらせてもらえなくなる。」
僕は心の中で汚い言葉を使う。「もうだいぶ使われてるだろ。」って。だけどキー君は、あくまでも黒い靴がきっかけと言って譲らないから、僕は続きを楽しみにする。
「しない、本当にしない。」ガマちゃんは必死に抵抗している。
「するよ、絶対にする。だって今日だって、お花見って言って散歩に来たけど、なんで俺がレジャーシート持ってないから怒られたの?必要だと思ったら、自分で持ってとは言わないけど、せめて「レジャーシート持って」くらいは言ってくれても良かったじゃん。」
「ごめんなさい。もう絶対にレジャーシートは自分で持つ。この先ずっとだよ。約束する。」
僕は思う。そういうことじゃねぇ、と。別に今後の人生でのレジャーシートに対するスタンスを問われているわけではない。うん。間違いなく。自分の考えを確信する。
キー君がガマちゃんの頭を撫でる。
「ごめんねガマちゃん。そういうことじゃない。でも、黒い靴を馬鹿にされて、レジャーシートなんで持ってないのよって怒られて、こんな人と結婚したら絶対に疲れてしまうって思ったの。だからごめんね。」
「ごめんねさい、私直すから、ごめんなさい。だから考え直して。」
「ごめんね。帰るね。」
キー君は立ち上がる。強引だねキー君、と僕は思う。ガマちゃんは呆然とキー君の後ろ姿を見つめる。
キー君とガマちゃんはどうやら別れたらしい。街中のベンチで。
そして、僕は目が合う。キー君の後ろ姿を見つめるガマちゃんと目が合う。
屈強な弱さを持った視線が僕を貫く。怖い。わがままガマちゃんがこっちを見ている。
怖い。だから僕は会釈をする。なぜかガマちゃんも僕に会釈をする。
だから僕は言う。なんとなく言う。今までの経緯を知っているショウちゃんとして言う。
「まぁ元気出してください。うん。」
「え、あ、はい。ありがとうございます。」戸惑って、戸惑いながらガマちゃんは僕に言った。
ここで僕は思案する。会話を続けるべきか。普通に考えれば続けないのが正解だけど、僕の人生は好奇心で溢れている。だから少し話をしたくなった。泣き虫ガマちゃんと。
「その、あれですよ、えっと彼氏さんも、」
「キー君?」
「そうキー君。キー君さんも。」
「キー君でいいですよ。」
「キー君も今は少し頭に血がね、その、のぼっている感じかもしれないから。」
ガマちゃんはシュンとする。「シュン」と音がしそうなくらいにシュンとする。
「少し調子に乗り過ぎたのかもしれません。キー君の優しさに甘えて。」
僕は「でしょうね。」と言葉に出さずに心に思う。
だから僕は代わりに「わがまま言い過ぎちゃったと自分でも?」と問いかける。
「そうなのかな。でもこうなったからにはわがまま言い過ぎたってことですよね。」
途轍もない他人の僕は心の中で大きく頷いた後に「今ならまだ近くにいるから、電話かけてみたらどうですか?謝りたいって素直に言ったらどうですか?」と他人事感を満載にしてアドバイスをする。
「そうですね、そうします。」そう言ってガマちゃんは携帯を取り出してキー君に電話をかけた。
もしかしたら出ないんだろうなと思ったけれど、すぐにキー君は電話に出たみたいだ。案外、追ってきてほしいだけなのかなと思うけど、そんなことは僕には関係ない。ここで立ち去ったら、途轍もない他人のくせに電話を提案した人間として不義理な気もしたし、何より僕の人生は好奇心で溢れている。だからその場に座ったまま、ガマちゃんの声に耳を寄りかからせた。
「ごめんね、しっかり謝るチャンスをちょうだい。」開口一番、ガマちゃんはこう切り出した。
「いや、何のことって、さっきの件だよ。レジャーシートの件。私がこれから持つから絶対に。」
どうやらそこで電話が切られたらしい。
ガマちゃんがまた、シュンとする。さっきよりも「シュン」と音がしそうに。
シュンとしたガマちゃんに向かって「多分ね、レジャーシートを誰が持つかと言うことは問題ではないと思うんだよね。」今度は言葉に出して伝えてみる。
「分かってたんだけど、上手に話せなくて。電話切られちゃった。少し反省をします。きっと今は何を言ってもダメだろうから。」
素直に反省をして落ち込むガマちゃんは、わがままだけど、いいところもたくさんあるんだろうな、と思う。
「そうですね。少し時間を空けることも大事かもしれませんね。落ち着いて、今まで自分の中でわがままを言ってしまったなと思う場面を冷静に整理してみて、これからはこんなふうにします、とか具体的に言ってみるといいかもしれないですね。あ、レジャーシート持つ持たないじゃなくてね。」
「分かりました。ありがとうございます。」
僕とガマちゃんの別れの時は近づく。パソコンをカバンにしまう。だけど、僕の人生は好奇心で溢れている。
「あの、なんでガマちゃんとキー君なんですか?」
「キー君が、私と付き合えたの嬉しくて嬉しくてどうしようもないから、私のワガママなんでも聞きたいって話になって、そうしたらガマちゃんって呼ばれて、なんでも聞くからキー君です。」
少しでも照れずにガマちゃんは言った。
やっぱり汚い日本語が心の中で溢れてしまう。「くそしょーもねーな。」
「なるほどね。本人たちの世界観ってありますもんね。仲直りできるといいですね。好きな人との別れはね、ぽっかり、まさにぽっかり穴が開きますからね。」
「まだ付き合って2週間だから、好きの絶頂期なんです。」何事もないようにガマちゃんは呟く。僕は膝に力を入れていないと立ち上がれそうにない。
「さようなら。」僕は言う。
「さようなら。」ガマちゃんも言う。
立ち去る僕の頬を春の風が撫でていく。
2週間で音を上げるなら、ガマちゃんなんて名前をつけるなよ、と思うし、キー君とも名乗るなよ、とも思う。
きっと僕は桜の散る季節になるとまた思い出す。
ガマちゃんとキー君とレジャーシートを。