⛴⛴⛴

 

48。

 

白いジャンパーを着ている。

見慣れたジーンズを履いている。

ナイキのスニーカーは片方が脱げている。

 

この世界で一番美しい人は、魂が抜け落ちた入れ物になってしまったとしても、やっぱり世界で一番美しかった。

 

「母ちゃん。」横でコウタ君が膝から崩れ落ちる。

みっともないぞ。と言ってやりたかった自分の膝からも力が抜けた。

 

 

「ミカコさん、なんでこんなところで寝ているんだよ。何してるんだ。ほら、どこ行ってたんだ。探したんだぞ。せっかく会えたのに、何で急にいなくなってしまうんだよ。」

 

「母ちゃん。母ちゃん。」

 

「コウタだって、ほら、心配したんだぞ。急に、いなくなるから。吉原さんの息子さんが教えてくれたんだよ、ここにいるって。ここまで来るの大変だったんだからな。でももう大丈夫だ。さぁ帰ろう。帰るって言っても、確かに家はないけど、でもここよりも体育館の方がいい。ここは暖房器具もない。ミカコがいなくなってから体育館には暖房器具増えたから、何倍もあったかいぞ。」

 

「母ちゃん。母ちゃん。。」

 

「そうだ、ミカコさんおにぎりも食べてないんじゃないか。おにぎり貰えるんだぞ。びっくりするくらい美味しい。お腹減っただろ。だけど受け取る本人がいないと貰えないから、ミカコさんの分は貰えてないんだ。お土産で持ってきてやればよかったな。だから一緒に帰って、それで、そうしたら家族3人揃うから6個も貰える。俺は一個で良い。コウタに一個やるからな。ミカコさんは最初は2個食べなさい。でも少し余裕が出てきたら、コウタは食べ盛りだから3個でも足りないんだ。だからコウタに4つ食べさせてやろうな。なぁ、ミカコ。」

 

「おい!母ちゃん!何でだよ!」

ミカコさんの肩に縋るコウタ君を突き飛ばす。

「やめろよ、コウタ。寝てるだけだ。疲れてるんだよ。でも流石にそろそろ起きないとだな。帰ろう。ミカコ。ミカコさん。ほら起きなさい。」

「やめろよ!おいちゃん、母ちゃんだよ。母ちゃん死んでんだよ。死んでるよ。」

「何を馬鹿なこと言ってるんだ。寝てるんだ。寝てるだけ。さぁ起きなさい。」

「死んでんじゃねぇかよ。死んでるよ。母ちゃん。何でだよ。母ちゃん。どうしてだよ。母ちゃん。会えたじゃんか。何でだよ。」

「ミカコ、なぁもう良いだろ。起きてくれ。頼む。」

ミカコさんの肩を揺する。強く、揺する。抱きしめる。強く、抱きしめる。

冷たい。硬い。温もりも柔らかさも失っている。何度も何度も抱きしめたその体は、固く、冷たく、生命が宿っていた気配すら消えていた。

また、揺する。名前を呼ぶ。小さな声では聞こえないのかもしれない。大きな声で呼ぶ。叫ぶ。何度も叫ぶ。愛しい人の名前を叫ぶ。何度も叫ぶ。

 

何で返事をしてくれないんだ。

 

いつもの優しい笑顔を、世界で一番美しい笑顔を見せてくれよ。

何で。

 

何で。

 

何で。

 

 

「ミカコ!!!!!!!!!!」

 

声の限り叫ぶ。

 

「ミカコ!!!!!!!!!!!」

 

もう一度叫ぶ。

この先の人生で何度も何度も呼ぶ予定だった名前を声の限りに叫ぶ。

 

 

 

 

「落ち着いてください!」

40代くらいの職員が、おいちゃんの肩を掴む。

 

「うるさい!」振り払う。俺に構うな。俺の大切な人を起こさなくてはいけない。いつまで寝ているんだ。

「ミカコ!!!!!!!!!!!」

 

 

「落ち着いてください!」

 

 

「ミカコ!!!!!!!!!!!」

叫ぶ。何度も、何度も、叫ぶ。叫んで叫んで叫んで叫ぶ。

抱きしめて抱きしめて抱きしめる。

自分の命を分け与えられないか。

心臓をくっつけてみる。代わりに動きださないか。俺のは止まってもいい。全く構わない。今この瞬間に止まって良い。その代わり、ミカコの心臓を動かしてくれ。頼むから。

何で寝てるんだ。いつまで寝てるんだ。

 

 

「落ち着いてください!!!!!奥様は、亡くなられています!」

横でコウタ君が大きな声をあげて泣き叫ぶ。

「母ちゃん、母ちゃん!」

 

急に力が抜けた。何でだ。何で。何で。

もう立ち上がれない。

おいちゃんの腕の中にいる亡骸はミカコさんだった。おいちゃんもコウタ君も見間違えるわけがない。ミカコさんだった。愛する妻だった。世界で最も美しい妻だった。

 

おいちゃんを抑えた職員が、力の抜けたおいちゃんの横に跪いた。

「奥様は、地震の翌日にこの場所にいらっしゃいました。早い段階で発見をされましたが、残念ながら、その時はすでに亡くなっていらっしゃったということです。」

「翌日、ですか?」おいちゃんがうつろな目で聞き返す。

「海水に浸かっていなかったので、綺麗な状態で発見されました。倒壊した建物の下敷きになってしまわれたものと思いますが詳しいことはこの状況ですので何とも。こちらは、奥様がお持ちでいらっしゃいましたお鞄です。」

何年か前の誕生日においちゃんが買ってあげたトートバック。何を買えば良いのかもわからず、サプライズも何もなく「ミカコさんが欲しいものを一緒に買いに行こう」と街に出かけて買ったトートバック。地震の影響なのか、長年使い続けたからなのか、ところどころが擦り切れている。鞄を見ただけで、溢れ出る涙に拍車がかかる。

「ありがとうございます。」

中身を見て、おいちゃんは声をあげて泣いた。力の限りに泣いた。こんなことがあって良いわけがない。力の限り泣いた。今までの人生で流さなかった涙を全て使い果たそうと。それでも涙は止まらなかった。全く止まらなかった。

またミカコさんを抱きしめる。強く、強く抱きしめる。

この女性は、世界で一番美しく、世界で一番強く、世界で一番愛情深い人だった。

 

 

🍵🍵🍵

もう僕は、涙を拭うのをやめていた。鼻水も垂れ流しだ。

それはおいちゃんも一緒だった。

しわくちゃなおいちゃんの顔を流れる、涙なのか鼻水なのか分からないそれには、時より星の灯りが反射する。

「受け取った鞄に何が入ってたの?」僕は尋ねる。

おいちゃんは、一度深く深呼吸をした。

「免許証とか、家の鍵とか。後は、人参にジャガイモに牛肉にカレールウ。」

「そんなのありかよ。」僕はまた泣く。もう声を出して泣く。会ったことはない、そしてこれからも会えることがないミカコさんの母親としての愛情を思って泣く。

「カレー作る予定だったんだろうな。あんな状況なのに、カレーの材料入った鞄は見つかるなんて、今思えばなんか笑っちまうよな。ミカコさんは、女性としても素晴らしくて、そして、母親としても最高の母親だった。」

 

遠くの空が少しだけ明るくなってきている。

僕たちの元に本格的な明日がやってくるまでもう少しみたいだ。

 

「でも結局、地震の後に会えたミカコさんは幻だったってこと?」

「まぁそうだな。幻と言えば幻。簡単に言えば幽霊だ。だけど、幻ではなかったというのが、俺とコウタの中の結論だ。」

「幻なのに、幻じゃなかったの?だって、地震の次の日には運ばれているっていうことは、おそらく地震の当日に亡くなってしまった可能性が高いわけでしょ。なのに、地震から何日か経っておいちゃんたちの元に現れるのは計算が合わないよ。申し訳ないけど、その時にはもうすでにミカコさん亡くなってたわけでしょ。」

「そうだな、その通り。だけど、どうしても、どうしても、たとえ死んだ後でも伝えたかったんだよ。だってコウタはミカコさんの全てだから。」

「伝えたかったこと?」

「そう。だけどその話をする前に、喉が渇いた。」

しばらく空になっていた2人の湯呑みに、また並々と日本酒を注いだのはおいちゃんだった。

 

僕は何となく、湯呑みを夜空に掲げる。

おいちゃんもそれに習った。

茶渋だらけの湯呑みどうしがぶつかる渇いた音が、波の音に寄り添いながら星空に消えていく。

 

 

僕は、ミカコさんがどうしても伝えたかったことを聞いて、

ミカコさんの親としての愛情が、命の境界線を越えたのだと知った。

 

 

明日20時公開

「隠し味には醤油を入れて⑨」に続く