⛴⛴⛴

「ミカコ!」

「母ちゃん!」

 

もう走れないよ。

くたくただ。今すぐ抱きしめに行ってやりたいのに、この20メートルを走れそうにない。

良かった。良かった。良かった。良かった。

ありがとう。ありがとう。ありがとう。ありがとう。

 

 

コウタが走り出す。

そうだな。行ってやってくれ。俺も後を追う。

まったく心配ばっかりかける息子なくせに、俺よりも早く抱きしめるなんて。

しょうがないか、母ちゃんだもんな。

大事な大事な母ちゃんだもんな。

 

 

「コウタ!」ミカコさんが声の限り叫ぶ。

「母ちゃん。母ちゃん。良かった。無事で良かった。ありがとう。母ちゃん。ありがとう。」

抱き合う2人を見つめて、もう歩くのをやめた。

もう前なんて見えやしない。

良かった。俺の家族だ。俺の家族が戻ってきた。

コウタ、泣くなよ。みっともない。男が2人揃って泣いたらカッコ悪いだろ。

 

「武雄さん。」

ミカコさんがこちらに向かって歩いてくる。

ミカコまで泣くな。

まったく、泣き虫な家族だ。

 

でも、それでいい。

今は泣いたっていい。また会えた。

ミカコさんを抱きしめる。

 

「良かった。」もうそれだけしか言えなかった。

ありがとうを伝えるはずだったのに。

愛していると伝えるはずだったのに。

何も言葉が出てこなかった。

ただ、抱き合って、ただ強く抱き合って、ただずっとそうしていた。

 

俺の人生ってまだまだ捨てたもんじゃないだろ。

叫び出したくなる気分だった。

ありがとう。

ありがとう。

ありがとう。

他に何がいる?何も要らないだろ?家族以外に何も要らない。助かった。それだけでいい。

どのくらいそうしていたか分からない。

少しずつ落ち着いてここは父親である自分から喋るべきだと思い、おいちゃんは一つだけわざとらしい咳払いをした。

「ミカコさん、まずは無事でいてくれてありがとう。本当にありがとう。それから、いつもありがとう。そして、ミカコさん、ミカコさんのことを愛しています。」

折り紙の上でしか踊らなかった言葉なのに、よりにもよってこんなしゃがれた声で。初めて伝えた。

「ありがとう武雄さん。私も武雄さんのことを心の底から愛しています。」

身体中が熱くなった。こんなに照れ臭い気分になったのは人生で初めてだけど、こんなに幸せな気分になったのも人生で初めてだった。

「ほら、コウタ。次はあれだ。お前の番だ。」

コウタ君も、姿勢を正す。赤髪が至る所に泥がついている。ピアスはもう外したらしい。

たくさん頑張って悪ぶっていたコウタ君もしっかりと姿勢を正す。

「母ちゃん。生きててくれてありがとう。それと、いつもありがとう。」

ミカコさんは赤ん坊の頭を撫でるように、高校生になった息子の赤髪を撫でた。

「私もありがとう。探しにきてくれてありがとう。そしてね、コウタ。本当に本当に生まれてきてくれてありがとう。お母さんの子供になってくれてありがとう。コウタに出会えたことがどれだけ幸せなことか。考えるだけで涙が出る。だけどごめんね。コウタのそばにいられる時間は短かった母親だけど、だけど世界中のどんな母親よりも息子の愛している母親だからね。ありがとう。コウタがいてくれるだけでとても幸せ。生きていてくれるだけでとても幸せ。私の人生最高の幸せは、コウタのお母さんになれたことと、武雄さんと会えたこと。」

絶望が街を襲ってからまだ時間は全然経っていない。それでもとても幸せだった。そして、こんな状況なのに、ミカコさんは、やっぱり世界で一番美しい女性だった。

それからは、家族3人で色々な話をした。

少しだけ空いた家族の空白期間が、目に見えて埋まっていく気がした。

そしておいちゃんは、地震があって咄嗟に持ち出したポーチの話をした。

「さすが武雄さん。咄嗟の判断で、そのポーチを持ち出すことができるあたりは本当に尊敬です。今までそのポーチの中身について話をしてこなかったから、この機会に話しておくね。コウタよく聞いて。そしてミカコさんはそのポーチから鍵を取り出した。おいちゃんはポーチに鍵が入っていることすら知らなかった。

「この鍵はT信用金庫の貸金庫の鍵。金庫の番号はこのキーホルダーに書いている通り。」それは隣町にある、信用金庫だった。

「こんなことがあったからこそ、いつでも伝えられると思っちゃダメね。もしも私に万が一のことがあったら、ここにコウタが将来好きなことを勉強したくなった時のためのお金が入っているから。でも、その時以外は使っちゃダメよ。なんか、一生懸命2人を探しながら、人生って常に備えていなきゃいけないんだな、って思っちゃったの。そして思ったことは常に言葉にしないと言いたくなった時に言えなくなってしまうんだな。って。」

そしてミカコさんは鍵をポーチに戻すと詳細な貸金庫の開け方を教えてくれた後に「宜しくお願いします。」と言いながらおいちゃんに戻した。

なんとなくおいちゃんも使っている銀行の口座の名前を2人に伝えた。

持っている通帳は一行だけで、無駄遣いもしてこなかったから結構な金額は貯まっている。確かに今回こんな事態に遭遇して、もしも自分が死んでいたらせっかく溜めてきたお金も誰にも使われないのは勿体無い気がした。何より、もしも自分に何かあったら、2人のために残してやるお金だ。

せっかく会えたのに、もしもの時の話をこのタイミングである自分達が少しだけおかしかったけど「こんな事態になったからこそだよ。」とミカコさんが言って、確かにその通りだなとも思った。

ミカコさんと再び会えた避難所では、3人に対して毛布が2枚支給された。家族3人川の字になった。ミカコさんが真ん中。右手はおいちゃんと繋いだ。そして、ミカコさんがおいちゃんにバレないようにこっそり握ったコウタ君の手をコウタ君が振り解くことはなかったことに、おいちゃんは気づいていた。

家族3人で暮らす夜。これからの生活なんて分からない。だけど、家族3人でいられればそれでいいじゃないか。

そのことだけがとても幸せだった。

とても疲れているはずなのに、眠りに落ちてしまうのが勿体無い気がした。

この幸せをいつまでも感じていたかった。これからも続くのに。今日が終わるのがとても惜しかった。横で眠るミカコさんの寝顔は美しく、その横で眠るコウタ君の寝顔は愛おしかった。これが俺の家族。これが俺の幸せ。これが俺の人生。

もう一度、ミカコさんの手を強く握り直した。

するとミカコさんの目がうっすらと開き、いたずらっ子のような笑顔を浮かべる。

なんだ起きてたのか。

おいちゃんはミカコさんにそっとキスをした。

冷たい体育館の中。ミカコさんの唇もとても冷たかった。

眠りは勝手にやってくる。

おいちゃんを幸せに包みながら。

 

🍵🍵🍵

「なんだよ、おいちゃんの話聞いて涙止まらないぜ。困る。」僕はもう日本酒を口に運ぶのを忘れてしばらく経ったことに気がついた。

この夏に仲良くなった目の前の老人が話す言葉たちがとても愛おしく、言霊一つ一つを抱きしめたい気分だ。

「その夜の、眠りに落ちる瞬間はそれまでの人生のどんな時間よりも幸せだった。それは間違いないんだ。」

「そりゃそうだ。やっと家族が会えたんだもん。そりゃそうだ。」

「もちろんその夜も、まだ家族に会えなくて探し回る人の声や、赤ん坊の泣き声は聞こえた。それに体育館の硬くて冷たい床の上だろ。なのにぐっする眠れたんだよ。それで夢を見たの。」

「あら、どんな夢?家族で幸せに遊園地とか?」

「なんてことはない。ただ、3人で居間で晩御飯食べてるだけ。」

「普通の幸せを何よりも求めてたってことだね。」僕は答えた。

「そうだな。で、メニューが、俺もコウタも大好きなカレーなんだけど、ミカコさんがカレーの作り方を細かく教えてくるんだよ。玉ねぎはしっかりと2つ、飴色になるまで炒めてください。トマト缶を入れてください。ルゥはこれを使ってください。そして最後に。」

「最後に?」

「醤油を入れてください。って」

「へぇ醤油。」

「そう醤油。それが隠し味で、これであなたたちの大好きなカレーの完成です。って言うわけよ。」急においちゃんは遠くを見つめる。またおいちゃんの涙が頬を伝う。

「なんだよ、おいちゃん。その日見た夢思い出して泣かないでよ。きっと、これからはあなたが作ってください、ってテレパシーだったんじゃないの。」僕は湯呑みに日本酒を注ぐ。今度は本当に、すっかり酔いが覚めていた。

「そうだな。正解。その通りだったんだよ。」

「なに、その通りって。たまにはあなたも料理くらいして!っていう抗議を受けたってこと。再会翌日にしてはなかなか厳しい展開だね。」

おいちゃんは少しだけ笑う。

そして涙を流す。

感情が右往左往している。

「抗議だったんかな。でも違うと思う。伝えたかったんだよ。どうしても伝えたかったんだ。」

「何を伝えたかったの?」

「カレーの作り方。俺とコウタが大好きな、ミカコさん特製のカレーのレシピ。」

「そんなのおかしいじゃない。また作って貰えばいい。」

「そうだろ。そうだよな。俺もそう思うよ。また作ってくれって。だけどな、次の日ミカコさん見つかったんだ。」

 

夜の静寂の重みが増した気がした。

どこかで鳥が鳴いた気がした。

星が一つ流れた気がした。

 

「ミカコさん死んでたんだ。ミカコさんな、死んでたんだ。」

この夏仲良くなった老人が目の前で啜り泣く。大学生の僕には、かける言葉など、皆目見当もつかなかった。

 

 

 

明日20時公開

隠し味には醤油を入れて⑥に続く