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春はそろそろ出番だと理解しているのか疑いたくなるように、3月でも寒さが和らぐ気配を見せない。おいちゃんは早朝からの漁を終えて、市場に魚を卸し13時を少し過ぎたあたりで家に帰ってきた。
コウタ君はその日、朝からバイト。ミカコさんは昼の仕事は休みだと言っていたが、どこかに行ったみたいで、おいちゃんが家に帰ってきた時には誰もいなかった。体の芯まで冷え切った体を風呂を沸かして温めて、風呂上がりに熱いお茶を淹れる。
午後2時46分。
家ごと、下から突き上げられる。そこに存在する全ての物が大きく揺らされた。突き上げは何度も続いた後に横揺れに変わったようだ。台所でガラスが割れる音が何度も聞こえた。ただごとじゃないとわかっても、何もすることができず、視界が恐怖で歪む。
家中がミシミシと音を立てて、今にも崩れそうだった。しかし外に出ようにもこれほどの揺れでは立ち上がることができない。
その時間は何時間にも感じられた。ようやく収まった後も揺れを感じたのは、自分の心臓が普段では考えられない速度で脈を打っていたからだと気づくまで少し時間がかかった。
今まで経験をしたことのない地震が起きた。とりあえずこの家は出た方がいいと判断して玄関に向かったが、家が歪んでしまったようで玄関の扉は開かなかった。居間の横にあった庭へと続く引き戸についたガラスが割れていた。漁に使う長靴を履いて、割れたガラスの間を体を丸めてくぐり抜けた。その時に手の甲が割れたガラスに当たり血が出たが、寒さと恐怖で痛みは全く感じなかった。
ミカコさんとコウタ君は。
咄嗟に頭に浮かんだ2人のことを思う。コウタ君が働いているコンビニはここから車で3分もあれば着く。しかし、ミカコさんがどこにいるのか分からない。とりあえず車に乗り込もうと思ったが、車の鍵を玄関に置いたままだった。次は、長靴で窓ガラスを蹴破り中に入る。家の中には多くの思い出が散乱していた。
ミカコさんは、通帳や印鑑を台所の棚の一番下の引き出しに小さなポーチにまとめて保管していた。そのくらいは持ち出した方がいいかもしれない。なぜなら漠然と、もうこの家には帰ってこない気がした。帰ってこられない気がした。
ポーチと車の鍵をとり、軽トラに乗り込む。とにかくコウタ君のコンビニに走ることにした。ミカコさんの携帯に電話をかけてみたが、繋がらない。おそらくしばらく携帯は繋がらないだろう。だからこそ、まずはコウタ君と行動を共にして、心当たりを探してみようと考えた。
そこで街の防災サイレンが鳴り響く。
津波がくる。
確かに今まで経験をしたことのない揺れであったことは間違いない。これまでの人生で何回か聞いてきた津波警報とは意味合いが違う気がした。再び地面が揺れる。先ほどとは比べ物にならないが、それでも車は止めなくてはいけない。
そうしている間にも、津波警報を聞きつけて、家々の車が一斉に走り出し、あっという間に道路は車で埋まってしまった。
コウタ君の働くコンビニは見えているのに、全く動かない。ミカコさんの携帯に電話をしてみても状況は変わらない。コウタ君の携帯も変わらない。
一度車から降りて、コウタ君を迎えに行こうか。いや、その間に車が動き出したら大変だ。おいちゃんはコンビニの出入り口を睨みながら、ミカコさんとコウタ君に交互に電話をかけ続けた。5分が経つ。それでも車は動かない。防災無線は、とにかく逃げるようにと先ほどからしきりに伝えている。その間にも地面は揺れ、街の景色が焦りと恐怖に埋まっていく気がした。カーラジオからは、どうやら東北地方を強い揺れが襲ったことが伝わるが、その後の詳細はまだ何も分かっていないようだった。とにかく、防災無線も、カーラジオも、津波が来るから逃げろと伝えるだけだった。
しかし、車は全く動かない。そろそろ判断をしないといけないかもしれない。おいちゃんは車のエンジンを切り、鍵を差したままにして降りた。そして数百メートルの距離を、懸命に走る。すぐに息があがる。こんなに全速力で走ったのなんていつ以来か分からなかった。足の筋が一歩ごとに切れている気がした。それでも足を止めるわけにはいかない。まずはコウタ君と合流しなくてはいけない。そして何がなんでもミカコさんを探さないといけない。コンビニが段々と大きくなってくる。ようやくコンビニまで来た時と、コウタ君が店から出てきた時は全く同時だった。
「コウタ!」今出すことのできる一番大きな声で名前を呼ぶと、コウタ君が驚きながら振り返った。
「大丈夫か?怪我はないか?」
「うん、大丈夫。とりあえず全員で避難しようって、店長が。」
「そうか。とりあえず無事でよかった。避難しようにも車はこの通り全く動かない。とりあえず歩いていくことにしよう。」
「うん。母ちゃんは?」
「今日は夜まで休みだったけど、予定があると言って出て行った。どこに行ったか聞かなかったのだが、どこか心あたりはないか?」
「分からない。母ちゃんが行くところなんて。仕事場じゃないとしたら、あの人普段何してたんだろ、仕事場以外。」
店の前で数十秒話していただけだったのに、その間に何人もの人たちが車から降りて自らの足で高台を目指し始めた。
防災無線から聞こえる避難を呼びかける放送のトーンも一段と上がってきている。自分達もとりあえず、高台に向かって歩き出すことにした。
コウタ君を先に歩かせ、おいちゃんは後を追う。コウタ君の早歩きには追いつくのは大変だったけれど、なんとか置いていかれないように足を前に出した。その間も、繋がらないと分かりきった電話をミカコさんにかけ続ける。
海を見下ろせる高台の公園まで続く最後の階段は人で溢れていた。女性に、老人、子供。みんなが一様に、とりあえず高台まで逃げてきた。
普段はほとんど人なんていない、高台を見下ろせる広場に辿り着いた時、すでにそこは人で溢れていた。そのほとんどが携帯を耳に当てて、誰かに連絡を取ろうとしている。そしてその全員の携帯はつながっていない様子だった。
「きたぞ!!」
海を見ていた男性が大きな声をあげる。高台にいた全員が一斉に海を見る。そこには黒い壁が迫ってきていた。
「逃げろ!」
「早く上がって来い!」
所々で声が上がる。
「早く!」
「こっちだ!」
「津波が来るぞー!」
誰に向けてか分からない声が上がる。
波は1秒ごとに高さを増しているようだった。
波は1秒ごとにこちらに近づいている。
この街に生まれ、この街に育った。この街しか知らない。
この街しか知らないからこそ、特段の愛着を感じたことはなかったけれど、自分の故郷を嫌いになったことはない。
そんな街が、海から打ち寄せる黒い壁に一瞬で壊されていった。
何千回と、あの海に向かって漁に出た。
海で育ち、海に生かされてきた。思い通りにならない相手だったけど、だからこそ愛していた。
子供の時からずっとそこにあった商店街にも、昨日行ったばかりの居酒屋にも、黒い壁は容赦しなかった。
そして何より、3人の思い出を紡いだ家までも。
聞いたことのない音だった。
家が薙ぎ倒される音。車と車と車がぶつかる音。電線がショートする音。
それは、この町の暮らしが、人々の生活が、壊れる音。
そして、それを嘆く人々の悲鳴。
家族の名前を叫ぶ人。
呆然と立ち尽くす人。
涙を流す人。
悲哀。悲鳴。落涙。諦め。絶望。
何分もただ見ているしかなかった。流される車の中から懸命に出ようとしている人を何人も見た。懸命に泣き叫ぶ赤ちゃんの鳴き声を聞いた。
だけど、ただ見ているしかなかった。
非現実の彼方に追いやられたような自らの意識。
「おい、おいちゃん。大丈夫か。」
コウタ君がこちらを見て言った。こんな現実を目の当たりにして大丈夫なわけない。しかし、コウタ君だって生まれ育った街が目の前でボロボロに崩れたことは同じだった。
「これが現実なのか分からない。」
「これが現実なんだ。とにかく、今は母ちゃんを探さないと。」
助けにきたはずなのに助けられている。この時になってやっと、自分が父親だと思い出した。そうだ、俺には守るべき家族がある。
「そうだな、ミカコさんを探そう。」
しかし、相変わらず電話は繋がらない。そして、見下ろす街並みを前にして、この高台から動ける想像が全くできなかった。
何もできないまま時間だけが過ぎていく。みちのくの3月の寒さが、容赦なく高台に避難した全員に突き刺さる。あっという間にあたりは暗くなった。
ミカコさんはどこに行ったのか。無事でいるだろうか。こちらを案じながら1人で不安と戦っているミカコさんを想うだけで胸が張り裂けそうだった。
高台に避難した人間は全員同じ街の人間だから、知っている顔ばかりで、全員が揃っている
家族もあれば、不安に押しつぶされそうになりながら懸命に不安に耐えている人の姿もあった。ただ、今できることは、とにかくこの夜をこの場所で越さなくてはいけない。全員が身を寄せ合い、不安と戦い、我が街が壊された絶望を見つめ夜を越さなくてはいけない。どこかで泣く赤ん坊の声も、命の灯火に感じられて全くうるさくは感じなかった。
「大丈夫だ。絶対にミカコさんは無事だ。きっとこっちのことをとにかく心配しているに違いない。明日水が引いたら探しに行こう。」
「うん。大丈夫な気がする。大丈夫。」子供だったはずのコウタ君は知らぬ間に反抗期を経て強い大人になっていた。
とてつもなく寒く、とてつもなく長い夜が明けた。なんとなくやってきた朝日に照らされた街並みは、昨日見たそれよりもよほど残酷だった。
何もない。
自分達の今までが。
この場所が再び立ち上がる想像など全くできなかったけれど、今はそんなことどうだってよかった。とにかくミカコさんを探さなくてはいけない。
少しずつしか引いていかない水の速度にイライラしながらコウタ君と一緒にミカコさんを探した。会う人全てにミカコさんを見なかったか聞いた。しかしその誰もがミカコさんを見た人はいなくて、その誰もが、自らの家族を見なかったか聞き返してくるばかりだった。
こうして3月12日もあっという間に夕方になると、近くの小学校の体育館が避難所になると聞いた。細かな情報がしっかりと伝達されるのは、小さな街の人と人のつながりだ。2人が向かった小学校の体育館には、入りきらないほどの人たちが詰めかけていた。
もしかしたらミカコさんもこの場所に来ているのではないかと思い、とにかくミカコさんの名前を呼び続けながら体育館中を走り回った。しかし、おいちゃんたち以外にも多くの人がしゃがれてしまった声の限りに自らの家族の名前を叫んでいた。
泣きながら我が子の名前を若い母親の姿もあった。
とにかく空に向けて祈りを唱える老人の姿もあった。
呆然とただ1人、その場に座り込んでいる子供の姿があった。
「ミカコー!」
「母ちゃん!」
2人で声の限り叫んだ。
何度も何度も愛しい人の名前を叫んだ。
声が掠れて出なくなっても構わずに、力の限り叫んだ。
絶対に愛する人も自分達を探し回っている。
だから懸命に。早く見つけてあげなくては。お前の宝物の、お前の人生そのもののコウタも無事だぞ。2人で無事だぞ。と伝えてあげたかった。
それでも陽が沈み夜になると、だんだんと避難所全体が静かになった。
支給された毛布は一枚。まだ食料は何ももらえなかったけれど空腹なんて感じなかった。
硬くて冷たい体育館の床の上に横になり、毛布はコウタ君だけにかけた。
「なんだよ、おいちゃんもかけろよ。」
「2枚に折ってかければ倍は暖かいから。俺はお前の父親だから。」
少しだけ強がった。そして、ミカコさんに無事に会えた時に、もしかしたらコウタ君はこの話をミカコさんにしてくれるんじゃないかと冷静に考えている自分もいた。
大人の啜り泣く声と赤ん坊の泣き声が真っ暗な体育館に響く。この場所にいる人数分の孤独と不安が空間に放たれていた。
少し眠ってはすぐに目覚め。少し眠ってはすぐに目覚める。
そうしていたら、また太陽は呑気に登ってきて、ぼんやりとした朝日が朝の訪れを伝える。
もう一回体育館中を回って見てみた。1人の顔も見逃してなるものかと覚悟を持って全員の顔を見てみた。しかし、ミカコさんはどこにもいなかった。
明らかに顔が疲れ切っている市役所のヘルメットを被った職員を捕まえ、ここ以外にどこが避難所になっているかを聞いた。
その何個かに目星をつけて、ミカコさんが働くスーパーから一番近い避難所に行ってみることにした。
一昨日までは車で10分もあれば行けた場所だ。しかし、今は瓦礫の山をかき分けて進まないといけない。それでも行くしかない。きっとミカコさんが待っている。2人で瓦礫をかき分けた。そして、出会う人全てに、ミカコさんを見なかったか聞いてみたが、昨日と同じ結果だった。
「お前ミカコさんに会ったらなんて言う?」
「母ちゃんに?」
「あぁ。」
「生きててよかった、とかかな。」
「そうだな。そして、ちゃんとお礼を言え。必ず伝えろ。俺もそうする。」
「何に対するお礼?」
「今までの人生に対するお礼だ。どれだけお前にことを愛してくれたと思っている。そして、どれだけ俺のことも愛してくれたと思っている。だから2人でお礼を伝えよう。わかったな。俺からの頼みだ。頼む。」
「わかったよ。とにかく早く見つけないと。」
瓦礫の中を進んだ。前を向いた。涙は出なかった。
結局、3時間かかった道のりの先にようやく小学校が見えてきた。
ついた。
さぁ探そう。
必ずここにいる気がした。
なんとなく予感がした。
愛する人は、ここで自分を待っている。必ずここにいる。
体力は限界だった。声だって自分の声かと疑いたくなるような声だった。だけど叫ぶ。迷いなどない。
叫ぶ。
叫ぶ。
「ミカコ!」
「母ちゃん!」
絶対にここにいる。
俺たちのことを待っている。
「ミカコ!」
「母ちゃん!」
足はもう動かない。
座り込みたい。
喉も焼けてしまいそうだ。
だけど、至る所で家族の名前を呼ぶ声にかき消されてミカコさんに届かなくなってしまわないように、懸命に、必死に。
愛する人の名前を。
今まで何度も呼んで、何度も折り紙に書いた人の名前を。
「ミカコ!」
「母ちゃん!」
叫ぶ。
叫ぶ。
「コウタ!武雄さん!」
耳に届く愛しい人の声。
全ての音が消える。
重力が失われる。
感情が一周し、世界には3人だけになる。
現実が追いつき、感情が舞い戻る。
重力が戻る。
全ての音が帰ってきた。
明日20時公開
隠し味には醤油を入れて⑤に続く