自由
「自由」や「平等」は虚偽だという。
それは人間には人と異なる環境、制約が生まれながらに、宿命的に背負わされてるもので、それを選べる「自由」はなく、「平等」には扱われないということです。
そういうことを言うと生きる希望を持たないニヒリストで、虚無主義への堕落といわれるかも知れません。
または、生きにくい社会で「自由」や「平等」なんてふざけるなと言っている単なる悲観主義者と思われるかも知れない。
でも事実です。
しかしこのことで、虚無主義や悲観主義を宣伝したいのではありません。
大事なのは、人間に自由はあるのか?ないのか?ではなく、
自由と言うものを本当に欲しているのか、自由と言うものの正体をしっかり見極めているのかを問う方が大事なのでそのことを考えてみましょう。
人って、居酒屋でも、お茶をしてるときでもいいけど、人間観や価値観といったことを語る場面になったとき、決まってこの「自由」や「平等」が大事なような語り口になってはいないでしょうか。
やりたいことを見つけ、オレはオレのやりたいことをやる、それこそが最も価値ある生き方だ、といったようなことは、二十代くらいなら居酒屋、喫茶店なんかの場所で話したことは一度くらい誰だってあるでしょう。
何となくロック歌手が「自由を手に入ろ!」と叫ぶから、とりあえず何が大切かと聞かれたら「自由」と答えてるだけで、自由という漠然としたものを手に入れることが目的となって、手に入れた自由から何を具体的にするのかははっきりとしていないことはないか?
こうなると本当に自由が欲しいのかどうかはかなり疑わしいもので、どちらかというと言わされてる感さえただよう。
もしかしたら自由のないことを本当は欲しているのかも知れないと疑ってみたくもなる。
例えばこういうことはないでしょうか。
受験でも、恋愛でも、自分のやることがうまくいってるあいだは、それらが自分の力でなしえたものであり、自分が自由に選んだ結果、成功につながったと思いたがるものです。それはいいでしょう。
しかし、失敗した場合はどうか。失敗した原因を外に求めることは誰だってあります。勉強する環境が整っていなかったからだとか、他の男が彼女にちょっかいを出して先に越されたとか、あるいはもっとイケメンに生まれていればとか。
その理由は気が楽だからです。失敗した原因を外に求めると諦めがつくからです。
自分の力ではどうにもならない以上、なにもしなくていい。
なにもしなくていい気楽な状態を望んでいたと言うことです。
いわば責任からの逃避であり、自由からの逃避です。
もちろん失敗の原因を自分に求める場合もあります。
場合によっては自分を責めて自殺にまで至ることだってあるかも知れません。
「自由」とは責任であり、重荷なのです。
「自由」とは大変面倒で、やっかいなものなのです。
福田恆存氏は「自由」とは何かをなしたい欲求、何かをなしうる能力、何かをなさねばならぬ責任に支えられていると言ってくれています。
「自由」とは大変面倒で、やっかいなものである以上、「自由」、「自由」と軽々しく叫ぶデモなり、大人を見ると、
「自由」は嘘くさく思えてならないのです。