ヴェール・オブ・イグノランス | 「異端児、常識を疑う」

ヴェール・オブ・イグノランス

わりと信頼できる有識者やインテリの人たちは、これから日本人の個人所得は増えないと言う。格差も埋まりにくいと。
その根拠のひとつの例は、日本人よりコストが何分の一も安いインドや中国の人たちに仕事がどんどん取られてゆくからで、実際にもう始まっている。

そしてこれらは悲観するべきことか?

確かに所得や富という面では悲観的にならざるを得ないとは思う。


今の近代社会は、人々が社会に参加する前段階に「ヴェール・オブ・イグノランス」という無知状態の覆いがかぶさっているようなもので、そのヴェールがひとたび開くと、ある人は金持ちの家に生まれ、ある人は賢くて社会に必要とされる人材になり、おのずと格差が生まれてしまう。

そしてその格差の中で誰しも弱者側になりたくない。だから運良く金持ちになった人からは税金を多く取って、お金がない人には福祉で手当てをするよう、皆が恩恵をある程度平等に受けられるような約束事の平等主義で成り立ってきた。

これに対し、努力して築いた金持ちの財産は個人の所有物だから侵害されたくない。コストの安さで勝つのは市場がそう決めたことだから、勝ち負けが付いてもそれが正義だという、自由主義が最近、強くなっている。

どちらが本当の正義なのか?

去年、ベストセラーになったマイケルサンデル教授の『これからの「正義」の話をしよう』。
ここでは第三の可能性を示している。

それは古代のアリストテレスという哲学者を例に出して語られている。

アリストテレスは「人々の平等」も、少数派という意味での弱者である「金持ちの人権擁護」も、どちらも政治の正義としてふさわしいとは言っていない。

アリストテレスは政治には目的、「テロス」がある、と。
そのテロスとは「市民の美徳を高め、よい人格を作ること」だと。
単なる生活のことや暮らしやすさを求めるのが政治ではないと。

だが、なぜか?

人は孤立して生きられない。つまり集団(ポリス)で生きざるを得ない。
そして集団の政治に参加することで人間固有の言語能力を活用できるのだと。
この言語能力で、物事の正義や不正義を論じれる。
つまり人間は「言葉の動物」である以上、善や正義について考えることからは逃れらることが出来ないからだと言う。

日々、生活のみみっちい金計算がすべてだと、善や正義は役に立たなくて忘れ去られている。

ヴェール・オブ・イグノランスの重たい覆いの下に、本当はテロスがあるのだと、新橋の働き盛りのサラリーマンには気づいてほしい。
オレは稼げないチョロリーマンなので…。