※お暇つぶし小説です。年賀状が届いたか不安。

5
 玄関まであと数歩の場所にある台所では、ルビーがパイ生地をガラスの皿に伸ばしているところだった。バターをたっぷり使った生地を、パイ皿の縁に沿って広げていく。少々、パイ生地が皿に対して大きすぎ、皿の縁からはみ出した分でもう一皿パイを作れそうだが、そんなことはたいした問題ではないのだろう。窓に面したコンロには年季の入った鉄鍋が載っていて、中には真っ赤な木苺がつやつやときらめいている。鍋の傍に置かれたビンには、注がれたばかりの甘酸っぱいジュースがほかほかと湯気を上げていた。 

「テルルったら、今日も追い出されちゃったのかい」

母は息子がどこにいても、その気配を感じ取る不思議な力を持っているらしい。テルルが声を掛ける前に、ルビーは布巾で手を拭きながら振り返った。

「いいんだ。ぼく、これから虫捕りに行くから」
「でも、お前の虫捕り網は一昨日破れちゃったじゃないか」

姑の揺るぎない倹約精神の下では、たとえ子供のおもちゃといえども新品を買うことは許されなかったため、テルルの虫捕り網は漁網の切れ端を編んで作ったものだった。その網は一昨日、バッタを追いかけて地面に叩きつけられた拍子に大きな破れ目を作ってしまっていた。細かい作業が不得手な母が修繕に取り掛かってくれるまで、テルルの虫捕り遊びは延期になるはずであった。しかし、テルルは構造色の瞳を虹色に輝かせて言った。

「あのね、ママ。長い棒にクモの巣を引っかければ、それが虫捕り網になるんだって。そっちのほうがずっと格好いいよ」
「おやおや、男の子はいつも面白いことを考えるねえ。さあ、ジュースを飲んで。今日のおやつは木苺のパイだよ。おやつの時間に間に合わなかったら、夜まで残しておいてあげるから」

エプロンの袖で口の周りを拭かれるのももどかしく、テルルは外へ飛び出した。

「今の時期は天気が変わりやすいから、にわか雨には気をつけるんだよ」

ポーチを下りて、視界に溢れる夏の日差しにテルルは目を細めた。この時期は、どこを見てもヒマワリの花が今を盛りと咲き誇っている。見上げれば一面濃い青色の空に、ぽつんぽつんとわた雲が浮かんでいた。崖の向こうから吹く海風が、斜めに曲がった松林を揺らして、緑の丘を渡っていった。

今日の空の色は、誰が決めたのだろう。雲はどこで生まれるのだろう。一歩踏み出すごとに、テルルの頭にはいくつもの疑問が浮かんでは消えていく。誰に聞いても知らない、という。書斎の本たちの中で、答えを知っている者は居るのかしら―。

「よお、テルル」

 友人たちの声に、テルルの物思いは吹き消された。テルルの前に、大小さまざまな子供の一団があらわれた。

「こんにちは、テルル」「こんちは、こんちは」「さっきこんな大きな蝶を捕まえたんだぜ、凄いだろ……」

 子供たちはそれぞれ、思い思いの品を持っていた。虫捕り網を勇ましく振り回しているが、腰に提げた籠の蓋が開いていることに気がつかない子、スコップを持ち、静かに蟻の巣穴に近寄っては、ポケットに忍ばせた虫眼鏡でじっと観察する子、母親に被せられた麦わら帽子が大きすぎ、顔が半分見えない子。

よだれかけが取れたばかりの子から既に第二次性徴が始まっている子まで、子供達の年格好はばらばらだ。年嵩の子もよちよち歩きの子も皆、まぜこぜになって遊んだ。
子供達にとって、こんなふうに晴れた夏の日は、どこでも素晴らしい遊び場になった。男の子は皆、棒を見つけると振り回さずにはいられない。テルルは手ごろな松の枝を拾うと、これまた手ごろなクモの巣を見つけて、特製虫捕り網を作るべく、枝をクモの巣に突っ込んで回った。しかし、如何せんテルルの手が届く範囲にあるクモの巣は小さすぎて、しなびた綿菓子のように枝にまとわりつくだけだった。何度目かの挑戦ののち、テルルはクモの巣製虫捕り網の製作を諦めた。

深緑の松林の木陰で、砂地に絵を描く子。地面に腹ばいになり、虫の死骸を巣穴へ運ぶ働き蟻の行列をじっと見つめる子。入道雲の根っこを探しに、崖へ向かって走る一群。しかし、どこまでいっても雲の根元は見つからない。行けども行けども、青緑に光る海が広がっているだけだ。子供達は誰もが自然にくっついたり離れたりしながら、ときに大勢で、ときに単独で、それぞれの遊びに没頭した。

「見つけたぞう」
「次は、テルルが鬼ね」

 三度ほど捕り物劇が繰り広げられたところで、テルルが鬼になる番がやってきた。実を言うと、テルルは隠れん坊が苦手だった。誰も気がつかないようなところに隠れるのは得意だったが、近くで鬼が相手を見つけられずに困っているのを見ると、つい物音を立てたりそっと手を振ったりして鬼にヒントを与えてしまう。そのくせ、自分が鬼になると足が遅いものだから、全速力で逃げる相手をなかなか捕まえられない。

「もういいかい?」

十まで数えて振り向くと、テルルの世界はすみずみまでしんと静まりかえっていた。蝉が棲めない北国では、夏の林に響く音といえば風の音と海鳴りしかない。耳の裏を流れる鼓動を通奏低音に、蝶の羽ばたきすら聞こえそうな静寂の中をテルルは走った。大樹の陰、背の低いしげみの中、およそ自分が考えつく場所はすべて探したのに、今日に限って誰も見つけられない……知らず知らず、テルルの眉はハの字に垂れ下がっていった。必死に探す視界の端に、黒い髪が曲がりくねった杉の木の端からはみ出しているのを捉えたとき、テルルは思わず叫んでいた。

「見つけた!」
「誰だ、お前は」

掴んだ肩から手を払いのけられて、テルルは吐きだす予定だった息を引っ込めた。まっすぐで硬い黒髪の持ち主は、テルルが今まで見たことの無い男の子だった。

「君、どこから来たの?」

相手が自分と同年齢くらいであることを悟ったテルルは、普段の気安さを取り戻した。

「どこだっていいだろ。お前のことなんか知らないし」

 黒髪の男児から思いも寄らない球を返されて、テルルは戸惑った。それは、今まで経験したことの無い対応―純粋な拒絶だった。

「ぼくはテルル。テルル・メンデレーエフ。丘の上に住んでる」
「へえ」

男児はぶっきらぼうな態度のままだった。ようやく彼が自分のことについて口を開いたのは、テルルが「ぼくは六つだよ」と年齢を明かしてからだった。

「六つって、何月の生まれだ」
「ぼく?ぼくは十月生まれ。この九月から小学校へ上がるんだ」 「へえー、そうか。おれは九月生まれだ。だからお前より年上」
「そうなんだ。じゃあ、もう小学校に通ってるの?」
「いや。学校に行くのは誕生日が来てからだ」
「じゃあ、ぼくと同い年?」
「そうかもしれないな」

黒い髪に黒い瞳、幼いながらも通った鼻筋の男児は、皮膚が透き通るように白い。テルルの周りの子供達と違ってあまり日焼けしていない肌へ、切れ長の目にあしらわれたまつげが陰を作る。テルルは彼のたたずまいから、暗さと鋭さ、そして冷たさを感じ取った。今まで出会った誰からも感じたことのない、冴え冴えと冷たい切れ味……。

「ねえ、君のこと、なんて呼べばいい?」

わざとらしくため息を一つ吐くと、男児は答えた。

「おれは、セレニウム・ルテナーヴィチ・ドルトンだ」
「セレニウム?」
「呼ぶときはセレンと呼べ」

 テルルは、自分の中で新たに知った名前を復唱した。新しい音は快くテルルの心に響いた。

「セレン、ねえセレン。ぼくたち隠れん坊をしてるんだ。今はぼくが鬼なんだけど、まだ一人も見つけられてない。君も一緒に探そうよ」
「何で」
「何でって……二人で探したらきっとすぐに見つかるよ。いつまでも見つからなかったらつまらないし」
「何で、おれがお前らの遊びに付き合わなくちゃならない?」

 つっけんどんな返答に、テルルが何か言おうと口を開くより早く、複数の足音が近づいてきた。

「テルルったら、いつまで探してんだよ」「もう待ちくたびれたぜ」「あれ、その子はだれ?」「知らない子だ」

 いつまでも見つけてもらえない隠れん坊に飽きた子供たちは、口々に文句を言った。

「ごめん。今度こそ、早く見つけられようにするから……」

 テルルたちが次の遊びについて意見を出している間に、セレンは静かに群れを離れていた。

「セレン、どこへ行くの」
「気安く呼ぶな」
「こっちで遊ぼうよ。次は海辺で水切りするって」
「ついてくるな」
「セレン、セレンってば」

 前かがみに早足で歩くセレンの後を、テルルは追いかけた。年も性別もばらばらな子供たちにとって、一つの群れから二、三人の小さな組が発生し、組ごとに行動することは珍しくなかったから、誰もテルルとセレンを引き止めなかった。
 夏の太陽にあぶられた海が、波間から無数の雲を生み出している。東の空には重たげな雲の城が現れ、腰を下ろすのにふさわしい地面を探していた。

「ねえセレン。ぼくたち、あの雲の根っこをずっと探してるんだ」
「どうでもいい」
「雲ってどこから生まれるんだと思う?ぼく、パパやママや、お兄ちゃんにも聞いて回ったけど、誰も知らないの」
「それはよかった」
「雲はどうしてひとつひとつ違うんだろう?お祖母さまが縫うキルトのクッション。あれに入れる綿みたいな雲もあれば、ちぎれて薄っぺらな、今にも空に溶けちゃいそうな雲もあるよね。何で違うんだろう?全部同じに見えるのに、どれも同じじゃあないんだ」

 二人はいつの間にか、町を囲む防風林を抜けていた。オゾンをたっぷり含んだ潮風が顔に吹きつける先には、鋭く切り立った崖がそびえており、その頂に松の木が一本、海風に揺れていた。

「雲の根っこか」

それまで、テルルのおしゃべりに生返事しかしなかったセレンが、ようやく口を開いた。

「あの松の木の根元、あそこにあるんじゃないか?」
 
セレンは、はるか向こうに小さく見える、松の木を指差した。
この一本松は、町では知らぬ者が居ないほど有名な木だった。かつて、この漁師町(そのころは村だったが)の崖はもっと海へ張り出しており、崖は先端まで針葉樹の林で覆われていた。しかし、ある時この地をとてつもない大波が襲い、崖をえぐり取って、林を根こそぎ海底へと引きずりこんでしまった。地形を変えるほどの災厄が過ぎ去った後、かつての針葉樹林は跡形もなくなっており、波に齧りとられた崖の頂に一本、かの松の木が残っていただけだったという。

「あそこはこの辺りで一番高い場所だろ。あの松の木まで登れば、雲の根っこに手が届くかもしれない」
「でも、ぼく、あんな高いところまで登ったことが無いよ」
「へえ、怖いのか」
「怖いわけじゃないけど……」

 テルルはこれまでの生涯において、他人から悪意や敵意を差し向けられた経験がなかった。そのため、セレンの言葉の端々に侮蔑が混じっていることに気が付かなかった。ただ、テルルはセレンの話しぶりや声音から、十歳も年が離れた兄と同じものを感じていた。
 テルルにとって、イオディンの生態は謎に包まれていた。テルルが物心付くころには既に声変りが始まっていた少年と幼児の間には、全く接点がなかった。イオディンが興味を示すもの、釣りやサッカーや血わき肉躍るケンカなどは大概、テルルにとって扱えるものではなかった。唯一、二人が近づくのは家族で集まって写真を撮るときに、子供用の椅子に座らされたテルルが動かないようにイオディンが腰を押さえるときだけだった。テルルは無条件にイオディンを慕ったが、イオディンの世界にテルルは人物として存在していなかった。

「お前がどうしようと、おれは行くけどな」

 言うが早いか、セレンは早足で崖へ向かっていった。その背中は、自分よりはるかに大人びて見えた。

「ぼくも行くよ」

 テルルがその後を追った。二人の頭上、はるか上空で積乱雲が急速に発達し、地上に湿った風を送り込んでいた。



(続く)