愛が深くなれば見えないものが見えてきます。



なぜ、私たちの住むこの世界は、

欺瞞冒涜不信不安不平不満摩擦衝突紛争戦争

格差搾取差別無視にあふれているのでしょうか。



なぜ、混迷極めるこの時代、

変革を志す志士が多数生まれてきているにもかかわらず、

変化が難しいのでしょうか。



問題をどうにか解決しようと、エネルギー・情熱・時間を投入して、

観点のチェンジ、関係性の再構築、思い方・やり方のチェンジをして、

ある程度は結果がでるにもかかわらず、なぜ、持続性がないのでしょうか。



個人のレベル、中小規模の組織のレベルの変化は何とか創れても、

社会全体の変化に至らない背景には、何があるのでしょうか。



この時代の変革を創り出すには、中途半端な変革では通用しないのです。



多様な問題の根本には、認識方式の問題が潜んでいます。

私たちは、我に執着する認識方式に慣れ親しみすぎました。

無我の思い方・やり方にチャレンジする人はいますが、古い認識方式に

固定されたまま、無我を持続するのには限界があります。



私たちは、執着から自由解放される、新しい認識方式を持って、

現実から離れて、現実に入って勝負する、新しい生き方に

チャレンジしなければならないのです。

そのための道具が観術です。



私は、多様な問題の本質を真摯に見つめ、今この瞬間、

本当に必要な変化にチャレンジする志と勇気を持った志士と出会いたい。



それは、全人口の1%かもしれない。もしかしたら、

変革を標榜する人たちのうちの1%なのかもしれない。

だけど、その可能性に賭けたい。



私のブログを読み、私が何を言おうとしているのか、

汲み取れる人がその1%だと思う。「悟り」とか、

聞いたことのない新しい単語を見ただけで、

「怪しい」とか「自分とは関係ない」と

条件反射的に思ってしまう人は、

残念ながらその1%ではない。



見た目の未熟さはあるだろう。

アプローチのやり方は下手だろう。

だけど、愛が深ければ、その背景を

感じ取れるのではないでしょうか。



観術の開発者であり、日本人の役割・可能性を

15年間訴え続けているNoh Jesu氏に出会えるイベントがあります。




HITOTSU学公開講座(東京) 次回は2月20日(日) 1000円



新春特別セミナー「Noh Jesuが21世紀の悟りを語る!」(福岡) 48000円

福岡:2月5日(土) 2月6日(日) 東京は終了。次回開催は追ってお知らせします。




観術を体験できるイベントがあります。




観術体験イベント(無料)

1月30日(日) 2月6日(日) 3月27日(日)

全て東京 14:00~17:00(説明会:2時間 交流会:1時間)



その他、観術の入門編セミナー(有料)もあります



 あなたの人生は“認識”で変わる! コミュニケーション講座
 東京:2月8日(火) 2月22日(火) 2000円



 失敗の力セミナー ~失敗は成功のもと、失敗の法則~
 東京:1月27日(木) 2月11日(祝) 2月24日(木) 福岡:1月27日(木) 2000円



 マインドームセミナー
 東京:2月26日(土) 3000円



札幌周辺にお住まいに方にはこちら 1月27日(木)




変革の中心核となる集団をつくりたい。その思いで立ち上げたカフェ会があります。

私は、物質文明の礎を築き上げた、科学者・技術者の可能性を無限大開花させたい。




第2回 技術者カフェ 1月29日(土) 東京・渋谷



第2回 科学者カフェ 2月11日(祝) 東京・渋谷




イベントに赴くのは、距離的に、時間的に、金銭的に難しい、

又は、「変な勧誘されたとき、断る自信がなくて怖い」などといった

懸念をお持ちの方に、USTREAMで映像配信もしています。




社会建築家TV 次回配信は2011年1月28日 21時~22時です




その他、私どもの同志が主催しているイベントがあります。




Cafe de 'M' 交流会 1月27日(木) 東京・品川



トマトカフェ 1月28日(金)朝 東京・渋谷



ぶっちゃけ交流会 1月29日(土)18時30分~21時 東京・三軒茶屋



Let's朝活 [Blog] [Mixi] 2月4日(金)朝 東京・渋谷



幕末カフェ 2月5日(土) 東京・銀座



第49回 ほっとかない交流会 2月27日(日) 東京・渋谷


日本を元気にする…多くの人が軽く口にするけど、どれだけ勇気がいることなのだろうか。
日本の集団知性の鬱状態に本気で向き合う覚悟があるのだろうか。
日本を本気で元気にしたいのなら、マスコミ・教育委員会が植え付ける
歪んだ歴史観から自由になって、真に自立した観点を持つことができるのだろうか。

人間5感覚脳が作り出す考え・感情・言葉・行動・イメージから自由になることなしに、
どうやって、日本の集団知性を精神病にさせている病魔と正面勝負することができるのだろうか。
過去の古いイメージをAll Clearにする知識の大爆発なしに、どうして日本が元気になるのだろうか。

中途半端な覚悟で日本を元気にするなどというのはやめにしましょう。
根拠のない願望を撒き散らせば多くの人を惑わします。本気で日本を
元気にしたいなら、それに相応しい知性を身につけましょう。

戦後日本人は考える力を剥奪されマニュアル人間だらけになってしまった。
物を大量生産する20世紀型文明では大きな力を発揮したが、21世紀に大きな足かせとなっている。
考えから自由になるための考えの素材が足りないのだ。美しいビジョンは
マスコミが作り出した歪んだイメージにまみれている。

乾燥しきった個人主義があふれ、夢が供給過剰状態だ。
各個人が自分の夢をカタチにすることだけを考えお互いを潰しあっている。
表面的なつながりは増えるが、本気で協力しようなどという気はさらさらない。
どうして、その先に明るい未来が描けるのか。

私たちは、普遍的なひとつの夢に向かって団結しなければならない。
人間だったら必ず通過しなければならない変化があるのだ。
体の人間が10ヶ月よりも長く胎内にとどまれば母子ともども死んでしまう。
考えから卒業する、考えの殻から抜ける、第二の誕生・悟りが必要なのだ。


私たちの生きるこの時代、この日本は、意味と価値を喪失した時代だと言えるでしょう。



焼け野原の廃墟から、世界一のメイドインジャパンブランドをつくりました。つくってみました。つくりすぎてしまいました。つくること、売ることに夢中になって、つくるとはどういうことなのだろう、売ることとはどういうことなんだろう、考えるとはどういうことなんだろう、生きることとはどういうことなんだろう、人間とはどういうことなんだろう、といった、意味と価値を忘れて生きてきました。



日本社会全体を覆っている病魔が、まさにこの習慣性の延長線上にあるものでしょう。



アルビントフラー氏が「第三の波」で描いた、情報革命による、全く新しい生活様式が、インターネット技術の進展、ツイッター・フェイスブック・USTREAMなど、個人がメディアを持つことができるツールの出現によって、具体的に、目で見て確認できる社会現象として、認識できるようになりました。



メガトレンドからマイクロトレンドへ。大企業から個人企業へ。生産者でもあり、消費者でもある、生産消費者の出現が、目で見て確認できるような時代になりました。今、新聞・テレビ・雑誌などの画一的なマーケティングツールに支配されてきた時代から、個人一人一人が情報発信者になって、コンテンツを分かち合う、感動社会へと向かう流れが見えます。



感動社会は、モノが満たされた状態が当たり前のプレートの上で、人間がより完成し進化した状態へと向かう、人間の変化を楽しむ社会でもあります。では、私たちが本当に追求するべき人間の変化とはどのようなものなのでしょうか。



文明を進歩させてきたモノからの呪縛を断ち切り、真の感動社会へとプレートチェンジを果たすために、私たちには、気づかなければならないことがあります。それは、私たちの社会に巣食う様々な問題をAll Clearする鍵でもあるのです。



私たちの認識方式は、黒船来航を機に、西洋から輸入された西洋式の認識方式です。西洋式の認識方式とは、ニュートン及びデカルトの発明した、XYZ座標軸によって、自然界を脳の認識の中に取り入れ、反復観察可能な実験事実を蓄積することを可能とした認識方式です。人間5感覚脳で認識できる範囲において、モノを媒介にして、共有共感が可能な普遍的メカニズムを抽出することに成功し、人間の手足を拡張するようにして、人間の意志を無限の遠方にまで通るようにさせる機械の力を手に入れました。



ところが、西洋式の認識方式の根底には、人間5感覚脳の認識の結果態を記憶して蓄積して統合した、認識プレートが横たわっており、この認識プレートが、私たち人間本来の可能性を、著しく小さな一人の個人でできる範囲に押しとどめてきたのです。



西洋式の認識方式は、多様なイメージ体系・論理体系を創出することに成功し、それぞれが学問の分野となりました。この知識の大爆発によって、いまこの現代にまで連なる、学術の時代が花開いたのです。学術は、古代・中世の、神を中心軸に据えた、宗教による人間の支配、宗教と結託しながら権威を振りかざした支配権力からの、自由解放を成し遂げました。



フランスの三色旗には、自由・博愛・平等の誇りが込められているといいます。多くの犠牲を払いながら、人間の尊厳性を勝ち得てきました。翻って、私たちの生きる時代と照らし合わせてみてどうでしょう。私たちの生き方は、本当に自由ですか。博愛に満ち溢れていますか。平等でしょうか。人間の尊厳性がどこに行ってしまったのでしょう。いまの時代背景の中で、自由とか博愛とか平等とか、本気でしゃべったら笑われるのがおちではないでしょうか。



学術を道具に、考える力を獲得し、そこに誇りを持っていらっしゃる方にも、是非とも気づいて欲しい事実があるのです。



思考停止がはびこる世の中において、要素間の関係性・組み合わせを自由自在に変化させる柔軟性を獲得すれば、多くの人よりは、優れたアイデア、仕事遂行能力、先見性、統合力を獲得することができます。だから、考える力を手に入れた人間は、考えることができない人間とは明確に違う、と思いやすいのではないかと思います。そして、様々な問題の原因が思考停止にあるように見えるから、思考停止を解除する、自分なりの方法を、思考停止した人間に対して輸出しようと試みるのではないかと思います。



ところが、西洋式の学術の認識方式の根底には、人間5感覚脳の認識の結果態を記憶して統合して蓄積した認識プレートが横たわっており、この認識プレートを卒業しない限り、思考停止は終わらないのです。



考える力を獲得し、そこに誇りを持っていらっしゃる方にも、是非とも気づいて欲しいポイントはまさにここなのです。すなわち、人間5感覚脳の認識の結果態の認識プレートから自由になる明確な悟りが無い限り、あなたの思考も停止しているのですよ、という事実があるのです。



 



感動社会は、人間が中心軸に据えられる社会です。人類500万年間の長い歴史の中で、人間の尊厳性が中心軸に据えられた社会は、ただの一度も具現化しませんでした。いま、私たちは、血と汗と涙がにじむような努力の中で追求してきた、理想の生き方、人間の尊厳性が無限に花開く社会の具現化の一歩手前まで来ています。



感動社会に力を生むのは、人と人のつながりです。お金は所詮考えの産物です。それが誰の目にも明々白々な錯覚として共通認識になる時代がやってくるのです。そのとき、感動を分かち合う通路は、信頼関係です。どれだけ、人の山を築くことができるのかが、感動社会で主導権を握る鍵となるのです。



だから、とりあえずつながっておこう、そういう人が多く生まれています。



では、つながってみて、一体何をするのですか?



次元の違う、人と人とのつながりをつくってみて、そこでいままで通りの感動パターンを生む活動を繰り返すだけで、どうして未来にわたって価値を生み続ける、持続的な感動を創出することができるのでしょうか。



物質文明を育んできた、人間5感覚脳の認識の結果態の認識プレートの上で、人間の体の満足をちょっと増やす活動、人間の脳が感じる悲しみをちょっと減らす活動を、やってみたところで、何の進歩があるというのでしょうか。



感動社会は、人間の変化を通して感動を生み続けることが、進化発展の原動力なのです。どうして、中途半端な変化にとどまっていて、物質文明の原動力を代替する、持続的な進化発展を生み出すことができるのでしょうか。



私たち人間が、本質的に向かわなければならない道があるのです。



本来は、宇宙の外まで自由に意識を飛ばすことができる可能性を秘めた人間が、どうして小さな体の、脳の中だけにとどまっているのでしょうか。



私たちは、明確に悟らなければならないのです。



悟りの感動を獲得しましょう。宇宙すべての存在と、変化・運動・移動を共にし、疎通・交流する楽しみと出会いましょう。



私たちが向かうべきは、その感動が当たり前にあふれる社会なのです。


観術を道具に、

学術研究のコンサルティングを行う

専門職を多数輩出したい。



学術は、物質に基準点を置いている。だから、学術の追求は、

学校で教え込まれた記憶を素材に、再現性のある組み合わせを

見つけるレベルを超えることができない。



観術とは、物質ではない、ある特殊なイメージに基準点を置いて、宇宙すべての存在、

宇宙すべての変化・運動・移動現象を説明することができる、新しい認識方式だ。



すなわち、観術を道具に、学術の多様な論理体系・イメージ体系を、ひとつの

イメージ理性の土台の上に統合し、調和を図って行くことが可能となるのだ。



私は、観術に無限の可能性を見いだしている。



学術研究者は、本質的に孤独だ。なぜならば、研究者個人が持っている

論理体系・イメージ体系は、誰一人として同じものはなく、全て異なるからだ。



学術研究者は、本質的に誰の助けも得ることができないまま、研究を進めている。

衣食住の助けは得られるかもしれない。レクリエーションの場、発表の場を通して、

激励・インスピレーションが得られるかもしれない。それら全て、研究の内容に

直接助けとなるものは何一つない。



観術習得者は、学術研究者の研究内容に立ち入って、共感することができる。

宇宙すべての存在・変化・運動・移動現象を説明する、新しい認識方式が成せる業だ。



観術習得者は、学術研究者の研究内容に直接助けになるアドバイスをするのみならず、

宇宙全体を見通した上で、学術研究者が将来的に報われる方向性をも示すことができる。



観術習得者は、学術研究者と学術研究者をつなげ、新たな研究分野をも生み出す。

一人の人間によって行われていた追求作業が、多数の人間による共同作業となり、

負荷の分散、機会の拡大にもつながる。



観術習得者の活躍によって、学術研究者の未来が、人生が、能力が、情熱が、

どれほどまでに、豊かに、輝かしいものになるだろうか。



私は、観術によって活躍する未来の専門職候補者を集め育てるために、

「科学者カフェ」と「技術者カフェ」を主宰している。





科学者カフェ http://cafe.miracle-lab.net/

技術者カフェ http://cafe.freethedreams.net/



 


私たち日本人には、人類の歴史を背負い、文明をバージョンアップさせる仕事があります。細かいエゴに入り込んで、主導権争いをしている場合じゃありません。今すぐに、未来人のグローバルスタンダードを身につけて、未来人の競争ルールに則って行動を始めるべきなのです。



国と国の争いが絶えない、既得権益と市民の連帯との争いが絶えない、個人の抱く不信・不安・不平・不満・恐怖が絶えない、個人と個人の摩擦・衝突、自己否定・他人否定・相対比較、人間関係の問題が絶えない、鬱・自殺・通り魔が絶えない、混迷を極めるこの時代を生み出す根本には、西洋発の科学的認識方式があります。多様な問題は、科学的認識方式が解決できる多様性の容量を超えてしまい、整理が追いつかないことによって生じているといってよいでしょう。



私たち日本人には、西洋発の科学的認識方式を卒業させるミッションがあるのです。



かつて、宗教と結託した政治権力が、遠征などを通して弱体化したことをきっかけにして、ルネッサンスの時代が花開きました。権力によって思考方式が一つの宗教に制約されていた暗黒時代から解放され、古典文化に新たな解釈を吹き込む、知識の大爆発が起こったのです。



古代・中世の「人知を超えた神」を中心に据えた認識方式によって多様な文化・文芸・思想・哲学・宗教が花開いた第1の知識の大爆発は、やがてその多様性の容量の限界を迎えることとなります。「人知を超えた神の創造意志に沿って生きることこそ人間の存在意義である」とする生き方は、人間に生きる意味とその指針を与えましたが、多様な神が乱立してしまい、また同じ神であっても、宗派によって多様な解釈が乱立してしまい、収拾がつかなくなってしまったのです。



加えて、妄想的解釈では説明できない事実が次々と明らかになっていきました。当時、支配権力がその権力を強固なものにするために、妄想的解釈を生み出し、民衆の思考方式を固定していました。政治権力が自分自身を神格化し正統性を持たせるため「王が生まれるから星が生まれ、王が死ぬと同時に星が死ぬ」などといった解釈を生み出しました。また、宗教権力が宇宙論を提示し、人間の生きる意味・価値を提供するため「遥か水平線の先は断崖絶壁の瀧となっており、大地を神と亀が支えている」「地球を中心として全ての天体が動いている」などといった解釈を生み出しました。



ところが、マゼラン艦隊が地球を一周し、ガリレオ・ガリレイが天に望遠鏡を向けると、もはや妄想的解釈・宗教的認識方式で世界を説明しきれなくなっていったのです。地球が球体であり、地球が動くことによって星が動いているように見えると説明したほうが、よっぽどうまく説明できることが分かってきたのです。



人類は、人間5感覚脳で再現可能な実験事実から法則性を抽出し、積み上げることで、モノの変化・運動・移動を予測・支配・創造できることを知り、モノの可能性を無限に引き出すことを通して、人間の生活をより便利に、より豊かにする多様な商品を開発開拓するようになりました。数学・物理学を中心に据えた科学的認識方式によって、第2の知識の大爆発が起きるようになっていったのです。



科学的認識方式によって、主観的な解釈が乱立し、異なる解釈の間で疎通・共有共感が難しかった宗教的認識方式のカオス状態を卒業し、モノの変化・運動・移動の再現性を通して共有共感できる、普遍性を獲得することに成功しました。ところが、モノが存在しているように錯覚させている人間5感覚脳の認識メカニズムに対する追求がないままに、「モノが初めから存在している」ことを全く疑わずに前提条件としてしまったがために、どこまでいっても人間が5感覚脳の認識の結果態から自由になることができない、認識方式の根本に不自由の種を抱え込んでいました。



ニュートン・デカルトが確立した、XYZ座標軸によって世界を認識する認識方式によって、自然界の多様な現象を、人間の認識の中に入れて解析し、法則性を抽出し、モノの変化・運動・移動を予測・支配・創造できる道が切り開かれました。



ところが、XYZ座標軸を中心に据えた科学的認識方式では、人間の心を観察することができず、人間の心とつながらない、人間を疎外する観念的論理から卒業ができないのです。だから、アダムスミスは経済学によって人間の幸せを現実化することを諦め、欲求が満たされない人間が、いつまでもどこまでも終わりなき「To live better」の生き方を追求する競争ルールを定義してしまいました。



モノが不足していた時代には、人間の可能性を無限に引き出し、多様な商品・企業・生き方・感動・幸せが開発・開拓されていきましたが、モノがあふれ、消費に疲れたあとも、終わりなき欲求の扇動、成就動機の開発、お金の自己目的化が進められ、節度を越えて、お金中心・機械中心で、人間が奴隷のように働き、動物のように消費に走る生き方がとめどなくあふれるようになってしまったのです。



西洋発の科学的認識方式を卒業させることが、どれほど難しいチャレンジなのでしょうか。アインシュタインでさえも、XYZ座標軸を前提条件として、時間1次元・空間3次元を時空間4次元に相対化して、空間の歪みによって重力を説明しようとする宇宙論にとどまりました。アインシュタインに続く科学者の誰もが、いまだXYZ座標軸の呪縛から自由になることはないのです。最終理論に近いとされるM理論でさえも、XYZ座標軸の認識方式を拡張した認識方式で、11次元と数式を使って表現するのにとどまっています。



11次元と数式の宇宙論が、どのように、私たちの幸せにつながってくるのでしょうか。どのように、今ここの感動につながってくるのでしょうか。私たちの生き方を、どのようにバージョンアップさせてくれるものなのでしょうか。XYZ座標軸の呪縛から自由にならない限り、人間の心とつながらないし、人間疎外の観念的論理の次元から卒業できないのです。



なぜ、日本人には、西洋発の科学的認識方式を卒業させるミッションがあるのでしょうか。



日本人は、東洋人でありながら、西洋の科学技術を受け入れ、経済・経営を受け入れ、西洋以上の、科学技術・モノづくり世界一の文明を築き上げることに成功しました。日本人は、西洋人の作ったモノ商品を分解し、観察し、製造技術のコアな部分を教えてもらえなかったとしても、オリジナル以上の技術を開発し、オリジナル以上の商品を作り出しました。日本人には、世界一繊細な心があったから、それができたのです。



アインシュタインでさえも超えられなかった、XYZ座標軸を前提条件とした認識方式、その後に続くどの科学者さえも越えられなかった、その呪縛を超えることができるのは、世界一繊細な心を持った日本人しかいないのです。



そして西洋発の科学的認識方式を卒業させることができる道具「観術」が開発されているから、それが可能なのです。



日本には、西洋の真似でもない、東洋の焼き直しでもない、全くのオリジナルを築き上げる素地と能力があります。日本には、明治維新以降、西洋の科学技術・民主主義・資本主義を受け入れ、オリジナル以上の文明を築き、欧米諸国と対等に渡り合ってきた伝統があります。ところが、敗戦以降、それまでの日本の良さが否定され、欧米諸国、特にアメリカに追従する思考方式が深く広く浸透しているのです。



日本人が、日本社会で、ヒーローをヒーローとして認める絶対的な評価軸を持っていないことが、屈辱的なことだと思いませんか?



なぜ、日本社会で、ヒーローをヒーローとして認めるために、その価値判断基準として、ノーベル賞などの海外の権威ある勲章、海外のコミュニティにおける評価などの、相対的な評価軸に頼らなければならないのでしょうか。



日本には、西洋の良さと、東洋の良さを統合した、オリジナルの絶対的な評価軸が生まれるべきなのです。それこそが、西洋発の科学的認識方式を卒業させ、第3の知識の大爆発を引き起こす主体となるのです。



だから、私たち日本人には仕事があるのです。



 


私たちには、なぜ観術が必要なのでしょうか。



その問いに答えることとは、私たちの人生の送り方、私たちの考えの走らせ方、すなわち人生の設計図、思考の設計図を、根底から置き換える発想の転換を求める話をすることであり、決して素直に受け入れられるようなことではないかもしれません。



また、今までの生き方、今までの思考方式を、多少整理整頓する分かりやすさがあったとしても、発想の出発点が、今まで人類が考えたこともない場所から出発するので、自分自身の考えの出発点の変化を受け入れない限り、その全体像をすっきり理解することは難しいことかもしれません。



しかしながら、その変化を受け入れたとき、その価値を認め受け入れたとき、ルネッサンスを導いた第一の知識の大爆発、科学技術革命を導いた第二の知識の大爆発に続く、第三の知識の大爆発を起こすことができる。そして、農業革命を導いた第一の波、産業革命を導いた第二の波、そして、情報革命を導いた第三の波を補完し、知識基盤社会を完成させる感動認識社会への変革を導く基本単位、知識経済をリードしていく個人知識企業家への変化が可能になるのです。


いままさに、人間観の再規定が必要なときです。

古い人間観が壊れようとしていることを示す観点を挙げるならば、

枚挙に暇がありません。



科学技術が、私たちの生活を豊かにしてきたことは周知の通りであす。科学技術は人間の喜び・楽しみを増やすことに貢献してきた一方で、私たちの暮らしに破壊と破滅をもたらす、もしくは自由と平和を奪う技術まで開発されてきたことにお気づきでしょうか。



アインシュタインの発見したE=mc2というエネルギーと物質に関する関係式が、原子爆弾の開発に道を拓き、広島と長崎の市民を多数殺し、恐怖と後遺症に苦しむ犠牲者を多数生みました。



クローン技術が倫理観に対する議論を巻き起こしながら、着実に進歩していることは記憶に新しいところです。また、メジャーから外れ、注目を集めていない分野では、その及ぼす影響に対する議論さえも起こらないままに、次々と開発が進んでいってしまっています。



$NextRenaissance-code0何と、マウスの胚にバーコードを貼り付ける技術が開発されてるそうです。人間への実用化もすぐそこまできているそうです。 カタロニア州の保健局は、人工授精を行うスペインの複数の病院で、このシステムを人間の胚と卵母細胞でテストすることについて許可しました。これがSF映画を超えて、政府による個体認証システムの実現化を進め、誰もがID管理される(支配しやすい)社会の到来が間近に迫っているのです。



ここで、気をつけなければいけないのは、科学技術を進歩させることは危険なことだという短絡的な議論に陥ってはいけないという点です。科学技術そのものには善し悪しはなくて、科学技術を扱う人間の進歩がないことの方がむしろ問題なのです。



私たちは、進歩しなければなりません。



科学技術の進歩の方向性を決める作業を、

一部の科学者の手に任せっきりな状態をいつまで続けるのでしょうか。



私たちは、難解な科学技術の言語を、一般市民にとっても容易に理解が可能なイメージ体系の開発が必要です。私たちの生活に大きな影響を与える科学技術の進歩を、市民不在のまま、難解な言語のベールに包まれた密室の中で決めるのではなく、広く一般市民の合意の元に決めていく、民主的な科学技術の進歩が可能な社会に進歩しなければなりません。



そのために、人間一人一人の変化が必要なのです。一人一人の変化から、新しい社会創造への動きが生まれます。



人間の変化とは、今までの古い人間観、すなわち「この体だけが自分だ」「5感覚と脳から認識できる世界が全てだ」と思ってしまう人間観から、全く異なる人間観への根底からの変化が必要だと言うことです。



そのための道具が「観術」だと言っているのです。



私たちに残された時間はあまりないのです。人間が変化しなければいけないときです。ここで変化できなければ、文明の進歩の勢いを止め、かつて中央集権の支配権力が勢いを強め、長い暗黒時代を経験したように、歴史の進歩の流れを逆戻しにしてしまうのです。すなわち、一部の支配権力者にとってのみ過ごしやすい、人類が未だかつて経験したことがないほどに、人間の考え感情言葉行動の一挙手一投足まで精密に管理する社会の到来です。



だから、このブログを読んでいらっしゃる方には、お願いしたいのです。ぜひ「観術」を学びにきてください。そして、人類が、平和で自由で愛にあふれた社会に進歩するために、最後に越えなければならない壁を共に越えていきたいのです。


このたび、私の本名及び、詳細な経歴を公表することに踏み切りました。いままで、Blogの記事上でさらりと触れたことはあったのですが、あえて公表することにいたしました。



私の本名及び、経歴を公表すると言うことは、私を個人攻撃するための材料を提供するということです。



私は、経歴によって、その経歴と結びついた人それぞれ自分勝手なイメージで、私の人間性を規定されることが嫌で、自ら経歴、特に出身大学名を明かすということは決してしませんでした。



 



東京大学



 



日本人にとって、権威の象徴であり、羨望の的であり、その一方で人知を越えた動きをする人材を多数輩出してきたという歴史もあり、多様な歪んだイメージを持たれていらっしゃる方が多くいるようです。



また、日本国内における受験戦争の最高到達点であり、少し勉強に自信がある人であればチャレンジしただろうし、チャレンジの過程で模擬試験によって優劣が計られ、入学試験によって、その後の人生の明暗を明確に分けられれば、その関門を突破した3000人にとっては素晴らしい経験になるだろうけれども、突破できなかったそれ以外の人にとっては激しい劣等感を味わうことになるでしょう。加えて、各種予備校が、自社の存在価値をPRするために東大他有名大学の合格者数を公表して、「東大に行くことこそがすごいことだ」というイメージを、中吊り広告で、バスのラッピング広告で、街中にばらまくものだから、さらにその劣等感に輪をかけることになります。



だから、東大すごいね、って口で言う裏では、どこかでこき下ろしてやりたい心が働く人が、日本人の中に少なからぬ割合でいるでしょう。



そのような背景がある中で、私が出身大学名の公表に踏み切ったわけは、日本の学術界の中で名実共に最高権威を誇る大学を出てきた人材が、その学術に限界を感じ、全く新しい観術を学び、その可能性、優位性、ビジョンを誰よりも理解し、誰よりも力強く発信しているということが、日本の学術界の目覚めにとって、少なからぬ影響を及ぼすと確信するからです。



東京大学は、日本の政府・基幹産業を築き上げる人材を多数輩出してきたと同時に、日本社会を根底から揺るがす、突然変異体とも言うべき人材をも多数輩出してきました。経済界では、リクルートを創業した江副浩正氏、ライブドアを創業した堀江貴文氏、宗教界では、幸福の科学を創始した大川隆法氏、オウム真理教に所属し無差別殺人事件に関わった豊田亨氏・山田憲氏などがいます。



彼らは、既得権益に支配され硬直状態の日本社会において、既得権益を打破するチャレンジをしてきましたが、やり方があまりにも急進的であったために、ある者は刑務所送りになり、ある者はシカトされ、死刑囚になった者もいました。彼らは、日本社会の変革に少なからず影響を及ぼしましたが、同時に未知のもの、理解を超えるもの、実績のないものに対する、根深い恐怖心を植え付けました。



特に、科学技術を人を幸せにすることではなく、人を殺すことに応用し、無差別の殺人事件を起こすことに、東京大学をはじめ多くの有名大学理科系出身の科学者が関わっていたことに、日本社会は戦慄しました。



そのような背景がある中で、私のような東京大学出身の者が、悟りとか、人間のイノベーションとか、進歩した科学技術だとか、そういった未知の世界、理解を超える世界、実績のない世界を語れば、日本社会が戦慄したあの事件とオーバーラップしてイメージしてしまいやすいし、そのように決めつけてこき下ろしたい衝動に駆られるのは理解できます。



 



しかし、いいかげん、もう科学技術だけにとらわれ、モノ作りだけにとらわれ、日本中心排他主義にとらわれ、新しい技術を受け入れず、進歩をとどめるのは終わりにしませんか?



 



今日は、エコプロダクツ展に久しぶりに行ってきました。私は、大学院時代、地球環境問題、特に地球温暖化問題、エネルギー問題を解決したいと志していたので、エコ業界は古巣でもあります。



私は、非営利団体やボランティアに頼るのではなく、経済循環プレートの上で地球温暖化問題を科学技術によって解決する道はないかと追求しました。多くの候補技術を検討しましたが、いままでの学術のパラダイムから産み出される技術の中では、いままでの経済学のパラダイムの中から産み出される社会構造の中では、経済循環と環境問題の解決を両立する解決策が全く見いだせないという絶望に直面しました。



いかに、地球にいいことをやっているように見えても、表面的にお茶を濁しているだけで、目に見えない部分では表面的に見える節約と比較にならないほどの環境負荷を生み出しているのが、いまのエコ産業の偽らざる姿です。



モノ作りをする企業が、モノを作るのをやめずに、モノを作り続けて、作ったモノの中でちょこっと節約することの、どこがエコロジーなのでしょうか。



需要(特に最先端技術を受け入れる日本国内の需要)は飽和しているし、地球の環境負荷許容量も飽和している中で、いままでモノを作ってきた企業は、何に存在意義を見いだせばよいのでしょうか。もちろん、少しモノ商品を作ることは必要です。しかし、いままでと同じペースで、いままでモノを作ることを通して維持してきた雇用を守るためだけのペースで、多くの会社が切磋琢磨・競争しながらモノを作る必要は全くないのです。



モノを作ってきた企業は、モノを作ること以外に存在意義を見いださなければいけない時期に明確に直面しているのです。



それは何ですか?



知識・感動だけによって経済循環を回すプレートに移動しなければいけないでしょう?



それのための道具が「観術」だと言っているのです。



だから、このブログを読んでいる人にはお願いしたいのです。ぜひ「観術」を学びにきてください。そして、みなさまと共に、「観術」を応用した新しい社会創造に取り組みたいのです。


いま、学術の研究現場で研究している人たちとコミュニケーションしたくて、「KEIO TECHNO MALL 2010」に出かけてきました。



これは、慶應義塾先端科学技術研究センターが主催する、産学連携のビジネスマッチングの場だそうです。黒いスーツの人ばっかりの会場で、驚きましたが、7人に1人は学生・個人なども来場しているようでした。



参加している研究者の人たちも、一生懸命研究していると思うし、講演に立った人も、この場を企画した人も、最大限の努力をしてここまでつくってきたんだなって思いました。



私も、何人かの研究者とコミュニケーションを図ったのですが・・・



道具の開発は素晴らしいし、システムの進化もとめどない。成果を共有したり、出会い・シナジー効果を生む仕組みの発展もめざましい。けれども、人間に対するイメージが変わらない限り、その研究の中身の進歩は難しいんだなと思いました。



私たちの便利で物質的に豊かな生活をつくってきたのは、科学技術の賜物です。科学技術は、主観的な解析が乱立し、お互いの疎通が難しかった問題、法則性を抽出し、変化を作り出す応用が難しかった、宗教的認識方式の限界を突破し、多様な商品・技術・企業の開発につながる道を拓きました。



ところが、科学技術は、その普遍性を確保するため、人間五感覚脳で認識可能で、かつ論理によって検証可能な実験結果だけを事実と規定し、積み上げていく暗黙の共通認識があり、それ以外の選択肢があるとは1mmも疑わないままに、これまで研究を重ね、論理体系を積み上げてきました。



科学技術は、その当初から、宇宙の一部分(人間五感覚脳で認識可能な範囲)のみを切り取る認識方式で研究を積み重ねてきたのです。



その認識方式に固定され、それ以外の認識方式を認めない社会から卒業することができないことが、いま研究者個人の人生を、時間を、情熱を浪費させていると言っても過言ではないほどに、研究生活を苦しく、厳しく、報われにくいものにさせているのだなと思いました。



今や、科学的認識方式で開発可能な知識・技術・商品は一通り開発され尽くされてしまっていて、社会全体を循環させる資本主義システムのベースの上で、研究の存在意義・生命線を確保する、一般生活者のニーズ・感動の余地も飽和してしまっていて、一方研究に従事する人は過剰なまでにあふれていて、その中で、新規性があり、社会的意義のあるテーマを見いだすこと自体が非常に難しい。



また、学術の中で、宇宙森羅万象を説明しきる最終理論を打ち立てようと、代表でチャレンジしている数学・物理学の最先端の分野であるM理論が、難解な数式を、いまここ目の前の現象と、どのように疎通させていくのかが分からなくて迷走している中で、そう簡単に画期的なイノベーションを発見・発明することも難しい。



だから、研究者はそれまでの蓄積の延長線上に、それまでの研究手法によって認識が可能な発想の範囲内で、ほんのちょびっとのイノベーションを一生懸命研究して、それが人間の生活に、人間の喜びを大きくすることに、人間の悲しみを少しでも小さくすることに貢献できるかも知れないと、夢想するのです。



たとえ、狭い分野だと認識していたとしても、それ以外に研究手法・研究分野があることを知らなければ、それをやるしかありません。研究を志したのであれば、それで生活しなければならないので、研究を遂行して何らかの結果を見いだして、存在意義をアピールしなければならないから、必死なのです。



そして、その研究結果は社会に貢献するのか。



研究分野は極限にまで細分化していて、研究結果が適用できる範囲は限られています。そして、世の中には研究者があふれています。中国やインドなど、いままでライバルではなかった新興国にも大学ができ、科学技術の教育を受けたやる気と能力のある研究者が多数育っています。そして、変化の激しい時代の中で、研究結果が適用できる先の商品は、次々と新しい形態に進化を遂げるのです。



そんな、適用範囲間の疎通が難しく、ライバルがあふれ、変化が激しい環境の中で、研究が報われることが非常に難しい時代に突入しているのです。



私は、「観術」によって、研究者の人生が、時間が、情熱が、私たちの日常生活に、私たちの社会に、私たちが生きるこの時代に、歴史に、文明に役立つ方向に、適切に振り向けられ、やる気と、やりがいと、生き甲斐を感じることができる、報われる社会をつくっていきたい。



だから、このブログを見ている方には、関心を持って欲しいのです。そして、「観術」を学びにきて欲しいのです。そして、「観術」を活用して、新しい社会を共に創っていきたいのです。


学術と観術は全く次元が違うということがよく分かる事例を見つけた。



学術界における最先端の研究を紹介する雑誌「Newton」に「脳と心」について、特集されていたという。そのことに触れたブログ記事を紹介する。



心はどこにあるのか 其の壱



心はどこにあるのか 其の弐



心はどこにあるのか。古くから追求されてきたテーマに、様々な角度から光が当てられようとしている。ところが、記事によると、結局のところ、



『心はどこにあるのか』に対する明確な答えは書いていなかった



という。 



これに対し、15年前にNoh Jesu氏が、心・無意識を明確にイメージ化することに成功し、その発見を基にした人間の可能性を無限大に開花させる教育プログラムの開発に取り組み、2008年からは明確に「モノづくりから人づくりへ」「心の時代」を宣言しながら日本全国でJAPAN MISSION PROJECTのムーブメントを展開しているにもかかわらず、なぜ、学術界の最終的な結論は「明確な答えがない」というところにとどまっているのだろうか。



次元上昇したHITOTSUのイメージによって、自然界の物質と力の根本メカニズム・最終理論を打ち立てたHITOTSU学だからこそ可能な、究極の知の統合の世界です。」と宣言しながら、その内容を広く一般の人に学べるセミナーとして提供し、公開講座まで開講して誰でもその内容の信憑性に対して質問を受け付ける姿勢を示しているにもかかわらず、なぜ、学術界はその内容を学ぼうともしないし、取り上げさえもしないのだろうか。



心はどこにあるのか、その問題を解決をすることを通して、人間は考えから卒業することができるようになる。考えから卒業することで、考え同士の衝突、争い、戦争から自由になり、考えと考え、夢と夢が一つに統合され、皆が共に歩む、新しい文明を構築することが出来るようになる。



これほどまでに考えと考えの衝突があふれ、夢があふれ、主導権争いから戦争まで起きようとしているこの時代に、それらをAll Clearできる技術を、なぜ、受け入れようとしないのか。



勇気と良心のある科学者の登場を心待ちにしている。