社会考察
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精神鑑定の欺瞞

殺人事件の被疑者に対する精神鑑定は度々ニュースなどで取りざたされる。 特に凶悪犯罪、たとえば奈良小1女児誘拐殺害事件などでは、弁護側の最終手段が精神鑑定の結果による減刑や無罪主張である。


この精神鑑定というものの無意味さを主張する人たちも多いが、全くその通りであるのは過去の犯罪史を省みれば当たり前のことである。


まず第一に、特に異常犯罪などでは再犯率がきわめて高い。性犯罪も同様である。これらの犯罪において、精神鑑定異常を理由に再び社会に野放しにされた人間が如何に危険であるかを考える必要がある。


そもそも、なぜ精神異常であった場合に減刑されるのか理解に苦しむ。 「善悪が判断できない」などとされ、無罪放免される(精神病院送り後)場合があるが、善悪を判断できないような人間を放免して誰が責任を取るというのか。私見では、精神異常者も健常者同様の刑を受けてしかるべきである。 さらに、健常者に比べて更正の可能性が低いわけだから、重い刑を科されても不思議ではない。


今の刑法や判例には大きな矛盾点がある。


建前上、罪を犯した者に対する刑罰は、更正させるために科されるのであって、罰を与えるためでも、見せしめ(他者の犯罪を抑える)でもないとされている。 その一方、精神異常者の場合は更正の可能性など皆無の場合でさえ罪は軽くなる。 これでは間違っても更正させるためなどと言えない。 明らかにおかしい。


仮に、刑罰が純粋に罰を与えるという目的で科されるのであれば、精神異常者の罪が軽くなってもおかしくないが、健常者への判決に『更正』云々を持ち込むべきではない。 


要するに、健常者の場合は『更正の可能性』を基準に判決を行う、異常者の場合は『罰を与えるに値するか』を基準とするという矛盾が存在しているのである。


これはどういうことかというと、刑法は加害者に有利に出来ていることの完全なる証明なのである。

「加害者に有利に思えるのは更正を考慮しているからだ。」などと言う法関係者がいるが、この矛盾によってその論理は崩壊する。加害者の都合によって、判決の判断基準が変わっているのだ。 人によって法解釈が変わるというのは不公平極まりなく、被害者を無視した行為である。


さらに、精神異常者が釈放され、平然と街を歩いている状態に恐怖を抱かない人間はいないであろう。 本当に精神病院で完治しているかなど誰もわからないのである(そもそも異常犯罪者の性癖などは治りようがない)。 精神異常者の人権よりも、公共の福祉が優先されるべきではないだろうか。









安楽死と尊厳死

医療が発達してきた近年、安楽死と尊厳死の概念が生まれ、また社会問題化してきている。


家族の強い希望や患者の苦しみと、医師としての立場の間で葛藤し、結局安楽死を選択して起訴され、有罪となった医師もいる。 安楽死をさせたことに対して殺人罪が適用されるのはどうかという議論もあるが、それよりも論点自体が偏りすぎていることに憤りを感じる。


安楽死に反対する人間や団体は、その場の医師の葛藤や、患者の状況を全く理解していないのである。 それを理解したうえで反論されるならば、医師にもそれなりの対応や改善は出来よう。しかし、医療現場にいる人間と、そうではない人間の臨終に対する意識は共有できないものなのである。


個人的意見としては、医師や看護士でない者、または医療に関する知識の浅いものが議論に参加するのは大反対である。 それは議論の混乱を招くばかりでなく、その他の論争と同じく感情論や誤解によって誤った方向に向かってしまうのは明白であるからだ。


大凡、安楽死に反対する人間は、安楽死が施される患者の様態を知らない。また、想像すら付いていないことが意見を聞いていると良く分かる。 特に、末期がん患者を初め、意識のある人間の最後は医療関係者以外は全く知らないだろう。 一般的な人は、テレビや雑誌など、事実を柔らかく表現(歪曲)したものからしか【末期がん患者の死】の瞬間を知りえない。 だから誤解するのである。 モルヒネが投入されるような状態の患者の苦しみは想像に絶する。それを見る家族の気持ちも知りえないだろう。 普通思われているように、『安らかに死の床に付く』人間など少数派なのである。


実際、本当に知るものは、早く死なせてあげたいという気持ちになるのが普通だ。それほど酷い。 死なせることが出来ない苦しみや葛藤、自分の将来を捨ててまで患者や家族のために安楽死をさせる医師を、誰が裁けるというのか。


そんな事実を知らない人間が安易に安楽死に関する論争に口出しするべきではない。 そんな行為は議論を捻じ曲げるだけでなく、医師への冒瀆である。 死に直面した状況下で、人権論は無力である。

知られざるテレビの影響

テレビの影響を考える中で、話題にあまり出ていないことのひとつに、殺人をはじめとする『人の死』に関する歪曲表現がある。 ここで言う人の死とは、つまり死ぬ場面、死んだ場面の表現についてである。


たとえば、ドラマのワンシーンで殺害の現場が登場したとする。 刑事モノでも何でも良いが、そういう場面はよくでる。


そのシーンには、実際に人が死ぬ場面を見たものしか気が付かない、大嘘が含まれている。


それは、その死に様である。 


たとえば、刑事ドラマでナイフで刺される場面があったとしよう。 本来大抵はあるものがそこにはない。


何かと言うと、ひとつは大量の出血。 そして被害者の断末魔である。


通常刺された人間というものは、刺された恐怖で大混乱に陥る。 大声で叫び、転げまわる。 もはや正気でもない。 ドラマのようにあっさりいかない。 よもや、死に際に格好良く見栄を切ったりする人間なんていない。


本物の殺人者が、初犯で最も驚くことが、殺した相手の死に様である。 また、殺人にはまって連続殺人を犯す者が現れる要因にも死に様がある。 それは今まで見たことのない壮絶な人間の最後を目にするからである。


われわれは、テレビの影響で人の死の場面を間違って刷り込まれてしまっている。 『人はこのように死ぬのだ』という先入観を持ってしまっているのである。 それが為に、殺人犯は初めて見る光景に酔いしれる者や、恐怖を抱く者、混乱に陥る者が多い。 正常な人間ならば、いったん人の死に様をみたら殺人などする気にならないだろう。


また、別のケースでは病気などで死ぬシーンが挙げられる。 ドラマの設定としては、癌や白血病などの設定が多い。 事故死なんてのもある。 しかし、どのシーンも本物とは全く様相が異なる。


これに疑問を感じない人は、恐らく目の前でがんや白血病で人が死ぬところを見たことがないのか、見たことがあっても医者に眠らされてなくなったケースだったのか、そのどちらかであろう。


通常、癌や白血病の末期というのは、ドラマのように穏やかではない。 もがき苦しみ、血反吐を吐いて転げまわる。 ドラマのように美しく死ぬ人間なんていないのである。 事故死の場合でもそうだ。 もちろん、意識を失ってない場合だが、ドラマなどで登場する苦しむシーンなどは大嘘である。 あんなものではない。 血が体から噴出し、混乱している患者は暴れまわる。 医師はそれを押さえつける。 大混乱である。


私は、ドラマではこれらのシーンが歪曲せずに演じられることを期待する。


本当の死に様を人々が知ることが出来れば、生や死について考える人も増えるだろうし、殺人を犯すものも激減するだろう。

遺伝の凄さ

『遺伝の凄さ』を言えと言われたら何と答えるだろうか。


生物の情報をコピーすることが凄いとか、情報を保持する機能が凄いとかいろいろあるだろうが、もっと深く考えてみる。


私の考える遺伝の凄さとは、生物の種が生存競争に有利に立つために変化が与えられるところである。 もちろん、自然淘汰説に出てくるような物理的なもののことではない。


そのなかでも、高等生物に与えられた変化は多様性を作り出し、競争が生まれる。 そして差別も自然発生する。 これはすべて種を繁栄させるためのものである。 同じ生物同士は、高等生物になるほどに差別意識を持ち、他者と争うようになる。 私の言う『凄い』の意味がこの段階で分かった人はかなりの天才であろう。 どうであろうか?


人間を考えると、われわれには他人を差別し、階級に分け、争い、破滅させようとする本能がある。 人間はこの本脳を長い遺伝の中で獲得した。 しかし、われわれは愚かな理性をも獲得したために、差別や争いをは悪であると考えるようになった。


しかし本来われわれが獲得したその本能は、種の保存・繁栄のために獲得した貴重なものなのである。


人がなぜこんな本能を持ったかと言えば、それは劣者を遺伝のリレーから排除するためである。


高等生物は、多くの細胞を持つ生物である。そして、細胞単位で考えると一個体に起こる変異の回数も多い。 つまり、生物は高等になればなるほど多様化するということだ。 その多様化を制御するために持つものが競争本能であり、優秀な種の遺伝子を纏め上げていくようプログラムされているわけである。


つまり、生物学的に言えば、種の保存のためにも差別や劣者の排除は必要であるということになる。 よって、遺伝子に組み込まれたプログラムのひとつに、そうするように脳に支持を与えるものがあるということだ。


そのプログラムを人間はどうやって獲得したのだろうか。 人間ばかりでない。 このプログラムを持つ生物は多くいる。 高等生物とは主にこのような生物である。


今の人間の倫理としては、弱者の保護は当たり前であり、差別をすることはタブーである。 しかし、遺伝子レベルで考えると誤った考えになってしまう。 つまり、弱者救済は必然的に、種のプログラムにバグを発生させる確率を高め、やがては絶滅を招くということである。


それを防ぐためのプログラムを遺伝によって伝えている。 


劣者への差別心を持つのは自然なことであり、それは多様性を生むほどに進化した生物の宿命なのである。


これが、遺伝の凄さである。 


これを理解できないと、遺伝の神秘は分からない。 これを単なる差別論と捉えてしまう人は気をつけるべし。 もう少し考えてみたほうが良い。






脳の解明の恐怖・・・

人が最高に恐怖する瞬間は、感情や感覚の持ち方がそれぞれ全く異なることを理解したときである。 通常考えられているように、「そりゃ異なるに決まってる。」と簡単に受け流している人の持つ『異なる』の感覚ではない。 理解できた人にとっては、絶望のどん底に突き落とされるくらいの『異なり』である。


『異なり』とはどんなことを指すのか。 それは、憎しみの表現と行動、悲しみの表現と行動、喜びの表現と行動とはお互いに一致していても、感じ取る信号の分析の仕方が異なっているため引き起こされる刺激の種類をさす。


よく考えれば、同じ脳を持つ人間は存在しない。 よって外部からお互いに伝えられるの刺激は一致しても、それを分析する細胞がどのような信号を感情をつかさどる細胞にわたすのかは分からない。 その信号が完璧に一致するはずはない。


つまり、感情の受け方はぜんぜん違うはずだ。 いや、もしかしたら自分の持っていない感情、感覚を相手はもっているかもしれない。 むしろその可能性はとても大きいだろう。


脳の回線が完全に一致しない限り、同じ感情、感覚は持つことができない。 万が一脳にある膨大な経路の電気回線が他人と一致するようなことがあれば、それはもう人間、生物を作ったものは神ということが証明されたようなものである。 なぜなら、変異を繰り返す細胞が脳の回線を変えたりしないように常に完璧にプログラムされているということなのであるから。 


もし人間が常に同じ回線をもつのであるのならば、一人の個人が一生の間で感じる感覚は、同じ刺激に対して100%一致しているはずである。 しかし、そんなことはない。 ピーマンをうまいと感じる人とまずいと感じる人がいることで明らかである。


また、自分が子供のときに嫌いだった食べ物が食べれるようになった場合を考えてみよう。 つまり、感覚が変化したというわけだ。 世間ではこれを『慣れた』と言う。 慣れたということがどのような意味を持っているのか考えたことがある人はいるだろうか? 『慣れた』という感覚は、つまり刺激の受け取り方が変化したということだ。脳の回線が変化したのである。 この変化のベクトルはそれぞれ似たような方向を向いている。 つまり、感じる感情がエネルギーを得される方向にプログラムが書き換えられるように制御されているということであろう。 まあ、とにかくこれでプログラムは変化してしまうことが証明された。 


人の反応の仕方はそれぞれ若干異なる。 それらは生まれたときから異なる。 つまり、人間のプログラムは精子・卵子の段階、両親の段階、両親の生まれたときの段階・・・と御玉杓子の親は代々カエル状態で変化するわけである。 それらをどんどんさかのぼっていくと、プログラムの差異がだんだんと縮まってくる。 そして、完全に一致した可能性のある段階までたどり着く。 それは何かと言えば、人類が無性生殖をする単細胞生物であった段階である。 そしてその一個体から無性生殖で発生し、子が後天的な変異をしていないうちの親子である。


現在の人間はプログラムの差異がとても大きい。 それは外見がかなり異なることからもわかる。 ほかの生物は外見が似ていると思わないだろうか。 それは、プログラムがコピーされる際にエラーで書き換えられた回数が少ないからだ。 ミクロの世界の生物なら瓜二つである。


最後にもう一度言うが、その差異の大きい人間の脳の回線が異なることの意味を理解したときに、人間は最大の恐怖を感じるだろう。


ライブドア被害者の会

ライブドア被害者の会が現在も活動中です。


被害者の会とは、平成18年1月16日からのライブドアや関連企業の株価大暴落によって被害を受けた株主を主体とした団体です。


彼らは被害回復を掲げ、寄付金を募り、また現ライブドアに対する訴訟も視野にいれた活動を継続しています。


彼らの発表によると、被害者の会会員は平成18年3月31日時点で約3000名、被害総額はおよそ100億円。 会員の主な構成はデイトレーダー、株取引を始めたばかりの初心者、資産運用に退職金をつぎ込んだ人などだそうです。


彼らは現ライブドアに対する公開質問状の中で、このような損害を受けた被害者に対する認識を問い、それに対してライブドアは明確な意見の表明を避けた形になりました。


怒りの沸騰点を越えた被害者の救済を叫ぶ声が未だに聞こえて来ています。


さて、本題に入ることといたしましょう。


この損害を被った被害者というのは、本当は被害者などではないのです。 これはどう考えてもそうでしょう。


「私はライブドアに騙された。」


そのようなことを口にすること自体が、本来ならば恥辱極まる行為なのです。 


ところで、この問題の捉え方にはいくつかがあります。 何れも異なる視点から考察してみましょう。



  まず第一に、私たちの持つ誤った常識を指摘しておかなければなりません。


そのひとつは、『法を犯した行為者によって損害を被った者は、無条件に法によって保護されるべきである。』というものです。


残念ながら、本来保護されるべきは過失の無い者に限られる場合のみであり、被害者の会のような株主にはそれは当てはまりません。 なぜなら、ライブドアの不法行為が暴かれる以前には、株主たちはその不法行為の恩恵に肖り、また不当な株価上昇を後押しし、またそれを歓迎した。 つまり、自分の判断によって投資をしたわけです。 


そこには、安易に金銭欲に駆られた愚かな人間像が浮かび上がり、彼らの行為には重大な過失があったと判断され得るものです。


万が一、不法行為が露呈せずにいれば、彼ら株主は更なる恩恵に与ったはずです。 それが、たまたま自分が損害を被ったために、手のひらを返すように被害を訴えるとは虫が良いにも程があるでしょう。


もしも彼らが株価大暴落の直前に高値で株式を売却できたとしたら、訴えるどころか逆の立場に回る者が多いはずです。


もちろん、法を犯したライブドアは非難されて然るべきですが、自分の過失、愚かさ、浅はかさを棚に上げて賠償を求める、自らの救済のために寄付金を募る被害者の会の姿は、第三者の目で見れば滑稽以外の何者でもありません。


幾ら不法行為を行ったライブドアに対してとは言え、自分を省みる能力を持つ者ならば、自分の愚かさを責めることはできても、それを棚に上げて救済を訴えることなど恥ずかしくてできるはずがありません。



  次に、企業や社会について、今回の事件を通して考察してみましょう。


まず、株式投資にはリスクが付いていることは既知のことと思いますが、そのリスクとは適法内、常識内に留まるものではないと知っておくことが重要です。 「適法」や「常識」の定義にも疑問がありますが、この問題は無視していきましょう。 初めに言ってしまいますが、今回の摘発は偶発的なものではありません。 これをライブドアの不法行為を検察が暴いたために事件となったと考えるのはあまりにも幼稚です。


実際は社会の奥深くに潜む人々の策謀や利権、調整の末の結果であり、確固たる意図を持ってなされたものであると知っておきましょう。


そもそも、不法行為を働いている上場企業など数え切れないほどあります。 検察や国もそれを既に認識しています。 しかしそこには、一般的な国民の理解を超えた力のバランスが存在し、その行為の露呈は公平に訪れるものでは決してないのです。 それが何によるものなのかは逐一説明することはできませんが、大きくは他国の組織の圧力、小さくは国内外のフィクサーやロビイスト、資産家などが挙げられます。


例を言えば、普段われわれが凡そ公平だと考える選挙なども、その力関係によって左右されるものであり、多くの国民の意思が反映されるものではありません。 特に力が左右するものに限って言えば、既にフィクサーによって決められてしまっているのです。 それをあたかも公平に決定されたかに見せかけているだけだと言うことを知っておきましょう。 因みに、次期自民党総裁は福田元官房長官と既に決まっています。総裁選などは建前に過ぎません。


また、経済的な視点で見ると、企業経営とグレーゾーンもまた隣り合わせなのです。 政府の経済政策もその時々で微妙に方向を変え、何時ある企業がライブドアのように血祭りに上げられるのかはわかりません。 


日本は出る杭は打つ社会だと揶揄されますが、出る杭とは稼ぐ者や能力のある者ではありません。 力の均衡を歪める者、ある人々の利害を左右するものが出る杭であり、打たれるのは日本に限ったことではありません。


このようなことを認識した上でリスクを考えなければいけません。 つまり私の言いたいことは、ライブドアショックの被害者はリスクの想定が甘かったというだけです。 当たり前ですが、リスク管理は個人の責任の範囲を超えることはありません。



 最後に、株主とはどういう立場かということを考えて終わりにしたいと思います。 株主とは、法的にも実質的にも会社のオーナー、つまり所有者です。 企業は株式を公開した時点で、株主に対して会社の所有権を開放し、場合によっては放棄したということになります。 株主資本主義はこれを前提とします。


 ですから、デイトレーダーであれ、法律上はその株を所有した時点で所有権の一部を取得し、その企業の経営に意見することができるわけです。 また、代表訴訟によって経営陣を変えることも可能になるのです。


 もうお分かりになるでしょう。


 つまり、企業の不祥事は経営者の責任であるだけではなく、その所有者の責任でもあるということです。 これは選挙(建前上)と同じく、被選挙人の当選は総意によるものとされます。 つまり、選挙人は直接投票をしていなかったとしても、その責任を共有するが如くであるという意味です。 小さなオーナー会社を考えれば簡単に理解できることであるのに、株主資本主義の理解不足のために別物であると考えてしまう。 これもまた、事件の被害者の愚かしさの露呈に過ぎないのです。


 結論といたしましては、ライブドア事件の被害者は総じて被疑者でもあり、責任者でもある。 つまり、今回の責任論や賠償請求云々は内部的な問題に過ぎず、公に訴えるべき類のものではないと言えるでしょう。