先ほどの記事 に関連して、松鶴家千とせさんの記事を見つけましたので、以下に転載します。
(1976年6月8日夕刊の記事)
===以下、新聞記事===
ヒットまでの苦労___わっかんねぇだろうなぁ
当世のはやりことば「わかるかな、わっかんねぇだとうなぁ」。
そのひとことで、漫談の松鶴家千とせがいま大変な人気である。
アフロヘアにひげ、それにサングラスのいでたちは、「たいやきくん
」の子門真人に似て何か暗示的だが、東京・浅草の松竹演芸場で開口一番いったのが「ぼくらの仕事って、こんなにあったのかと、ただびっくり」
オイル、水虫、トラック
ついこの間までは、仕事がなく、子どもを連れて釣りをしたり、動物園で日がな一日をつぶしたりしていた。研ナオコとのホテルのコマーシャルがテレビで流れはじめたのが二月。四カ月後のいま、テレビのレギュラー番組四本に出演、ラジオを含めて出ているCMが自動車オイルから水虫の薬まで十一本。
初めてのテレビドラマはもう収録済みで、七月には東映の菅原文太と「トラック野郎」で共演、役は未定だが松竹映画にも出る。そして、近くレコードの第二弾、演歌も吹き込んだLPも出る、といった具合なのだ。
売れなかったねぇ二十年
この人、漫才の松鶴家千代若に弟子入りしたのが三十一年。三十八歳で、この道二十年のキャリアがある。漫才でスタートしたがずうっと売れなかった。五年前、三人目とのコンビとも別れ、食うためにやってきたキャバレーの司会などの仕事をいっさい断って漫談にかけた。今度、芽が出なかったらあきらめようと思って。
「それでもやっぱりだめで、だいたいこの人たちにオレの芸がわかるのかなぁ。わかるもんか、とふてくされて本当の気持ちをいったのがあれです。四年前、浅草の木馬館でした」。民謡を楽しみに来ていたおばあさんたちは、はじめて使った『わかるかなぁ、わっかんねぇだろうなぁ』にただあきれ返っていたという。
なんで受けたかキョトン
このギャグが慰問先の長野の刑務所で受刑者たちにはじめて受けた。自信を得て、東京の東急文化寄席で使ってみた。「学生たちが、ひっくり返って笑うんだね。ドアーンと来たもんで、ズボンのチャックでもあいてんのかと思ってさわってみた」。
仲間たちにも「いける」といわれて、楽器や童謡のパロディーのあとにこのギャグをつけた。「わかんねェだろうナ。千とせの今昔物語」のパート・Ⅰが「夕やけこやけ
」でパート・Ⅱが「七つの子」。五十ほどあって全部自作。
若かったころの思いをこめたものが多いという。福島県原町の零細農家に生まれ、六人兄弟で貧しかったころのこと。定時制高校を一年でやめて「ひと旗あげたい」と思って上京したものの、友の三畳のアパートでひとつのインスタントラーメンを奪い合って食べたころのことなど。
あの「たいやきくん」だって、余り聞かなくなった、と水を向けると、「まだもちますねぇ。ニューヨークでもはやりはじめたらしいから」と笑わせたあと、真顔でいった。「こんな忙しさが何年も続くはずがありません。でも、やっとこの日のために苦労してきたんです、ぼくら」
「ぼく」といわずに「ぼくら」といった。その日を夢見てこの間までの自分と同じようにがんばっている、多くの芸仲間たちのことである。
===以上、新聞記事===
>あの「たいやきくん」だって、余り聞かなくなった
さすがに、6月に入るころには、ブームは沈静したのですね。
松鶴家千とせさん、「みごろ!たべごろ!笑いごろ!!」の電線音頭のコ ーナーにゲスト出演されている映像が、販売されているDVDで見られますね。