北京オリンピックでは中国当局が厳格にドーピングを取り締まっているが、遺伝子ドーピングと呼ばれる違反についてはこれまでのところ見つかっていない。しかし、オリンピック選手が遺伝子的に筋力を強化し、トレーニング後の回復力を高めるといったことも、近いうちに現実になるかもしれないという。あるいは既に手を染めている選手がいる可能性もあるのだが…。
遺伝子ドーピングは、ある特定のタンパク質などを効果的に作るようにその関連遺伝子を取り込むことだ。カリフォルニア大学サンディエゴ校で遺伝子治療を研究するセオドア・フリードマン氏は、「能力を向上させる遺伝子を無害化したウイルスに入れて、選手の体内に注入すれば、うまく筋細胞と接合させられるかもしれない」と語る
この方法は動物実験では既に実現している。レポキシジンと呼ばれる人工ウイルスなどを用いて、エリスロポエチン(EPO)というホルモンに働きかける遺伝子を注入するという。EPOは赤血球の生産を促進するホルモンで、赤血球は筋肉組織に酸素を送り込む。
EPOは貧血の治療で重要な役割を果たしているが、ランナーや自転車選手、クロスカントリースキー選手が使用してドーピング違反になるケースも多い。レポキシジンの働きも選手の間ではよく知られ、2006年の冬季オリンピックではドイツチームのコーチが入手しようとして告発されている。
数年前まで、遺伝子ドーピングが横行する時代はすぐにやってくるだろうと考えられていた。ところが事態は思わぬ展開を見せた。合法的な遺伝子治療の臨床試験段階で研究が壁に突き当たったのだ。それは「死亡例が出たからだ」と前出のフリードマン氏は説明する。加えて、バブルボーイ症候群と呼ばれる重症複合型免疫不全症の治療でも、通常であれば成功するはずの手段で子どもが白血病を発症したために治療を中断するという事態が起きた。
遺伝子治療に用いられるウイルス、つまり不正行為にも使用される可能性のあるウイルスは、予想されていたほど簡単に取り扱えるものではないようである。ペンシルバニア大学で生理学を研究するH.リー・スウィーニー教授は、「人間の免疫システムでウイルスが排除されれば、ほとんどの実験がストップしてしまう」と話す。将来的には、治療の期間中、患者を入院させた上で免疫システムを抑えることになるかもしれない。同教授は「もしスポーツ選手がドーピングを考えても、わざわざトレーニングの最中に6週間も入院しようとするだろうか」と語っている。
とはいえ、もっと手軽な手法で、遺伝子ドーピングが実現される日は近いかもしれない。ウイルスを利用した面倒な手法ではなく、「むき出しの」DNAを直接、筋肉に注入する手法があるのだ。
注入されたDNAの一部は付近の細胞に取り込まれる。EPOやヒト成長ホルモン(HGH)といった重要なホルモンをコントロールするDNAを注入すれば、ドーピング効果が見込まれるという。効果はEPOやHGHを直接注射した場合とそれほど変わらないが、1度だけ注入すれば済むので費用の節約につながる。ただし、選手の体内には多量のホルモンが残るので、このタイプのドーピングは検査も容易だと考えられる。
本格的な遺伝子ドーピングの場合、検査はそれよりも難しくなる。国際オリンピック委員会では、現状の検査方法では検出できないドーピングに対応するため、オリンピック選手の遺伝子サンプルを8年間にわたって保管している。
それでも、スポーツ関係者はいずれ遺伝子ドーピングを受け入れざるを得なくなるかもしれないと科学者らはみている。普通の人の健康を増進するための手法と、超人選手を作り出す手法は一致しているからだ。「遺伝子治療は、われわれ普通の人々の人生や、医療形態を変えることになるだろう」と前出のスウィーニー教授は述べている。