この記事(2008年04月23日、日本経済新聞 朝刊)を見て、まず「おかしい、何かある、不自然だ」と思った。


企業に属し、仕事上書いた『複数の情報源から得た情報もあるが、オリコンランキングはある程度操作可能だ』という記事に対し、個人のジャーナリストがオリコンから名誉毀損で訴えられ、地裁で敗訴、減額されたものの100万円の賠償支払いを命じられた。というもの。


さて、なぜ企業ではなく、個人なのか。


これは難問奇問だ。


仮にオリコンとこのジャーナリスト個人のプライベートで何度となくトラブルがあったとすれば、オリコンが個人を訴えたくなった?というなら、心理的にはわからなくもない。


さらにその上、そのトラブルがこのジャーナリストに明らかに非があった?というなら悩ましいところだ。


でも、仮にそうだったとしてもなぜそのトラブル個々ではなく、仕事上書いた記事について個人を訴えたのか、そしてなぜその不自然な訴えを地裁が認めて個人のジャーナリストが敗訴になったのか。


この記事だけでは、オリコンが、なぜ勝訴したのか理由がさっぱりわからない。


一方、情報操作については、社会の中に数え切れないくらい溢れている(蔓延(はびこ)っている)。


グラフや統計資料などを仕事で作ったことがある人も多いだろう。


でも、ちょっと振り返ってみて?そのプロジェクトを推進している担当者がグラフや資料を作る場合、そもそも推進するための好材料を探して、好材料のネタと、好都合な数字を集めて、統計調査、グラフ化し、プロジェクトの優位性を訴えたことはないだろうか?


これは心理学上、好きな、やりがいのある、自分が信じている、思い入れの強いものの共感を集めるために平等に見ているつもりでも、つい都合のいい作り方をしてしまうことは、否定できないだろう。


第二次世界大戦時、日本軍幹部が意図して流した勝利の政見放送によって、それを信じ、最前線に立つ軍隊が窮地の地域へ騙されているとも知らずに意気揚々と乗り込み、壊滅したのも情報操作だ。


仕手株という言葉が証券市場にはあるが、これは株価の情報操作だ。


テレビなどのCMも情報操作なのか広告なのか微妙なものが増えている。


若い女性タレントが「汗臭い男の人は嫌かな!」とかわいらしく言い放ち、それに感化されて某商品を使うものはがある。


まるで女性全員が「汗臭い男の人は嫌!」と言っているかのような表現は前述の通り微妙じゃないだろうか?


化粧品のCMですごく人気の好感度が高い女優が起用され宣伝されていて、それによって「彼女も使っているのかな・・・」「私も美しくなれるかも!」と思わせるのは、実はこれまた微妙ではないのかな?


CMで起用された女優が、それを使っていると思い込む人は最近は少ないだろう。


でも、その女優の化粧は自分では決してしていない。スタイリスト、メークアップアーティストがつき、プロの手と女優の天性の美しさが織り成すハーモニーであって、さらに絶妙な照明とカメラワークによって出来上がった芸術的なアートであって個人が誰でもできるものではない。


さらに多くの場合、街中でとか、外で撮影されているものは少ないだろう。


色合いや風合いや質感、魅力が引き立ちやすいように例えば、白系の背景のスタジオなどをバックに使っている。


中には、衣装も現時的ではないものもある。


そんなことわかってるというものの、なんとなく脳裏に残る映像が、さりげない記憶となって店頭を通りかかったとき真っ先に探したり、目に付いたり、友達と食事しながら、そのCMが話題になったり。


経済の中では、これが当然のように行われているけど、一種の情報操作。


今に限らず、数十年くらい前でも、真実はともあれ、レコードやCDの売上枚数は、単純に信じられないよなー、アーティストに入れ込むレコード会社が大量買いしてるんだとか、本人も買ってるんだとか、親戚一同が買ってるんだとか、言われていた。


なぜ、今回は、ジャーナリストという立場だったこと。不特定多数にその情報を提供したこと。があるにしても、一般に認知されていると考えられる企業のジャーナリストという見方をした場合には、少なくとも訴訟の相手は、やはり企業なんじゃないだろうか?


これだけの記事内容ではこうなった経緯がさっぱり理解できないが、◎司法の闇?/http://ameblo.jp/soboku-question/entry-10087385038.html もある。


国会議員が、ある引退直前でセンセーショナルな?裁定を下した裁判官に、「彼は以前から問題があった」といったコメントをした。


万一、仮に以前から問題があったとしたら、なぜ問題のある裁判官が定年まで勤め上げられるのか?


以前から問題があったか否かは別として、三権分立からなる日本で、国会議員が否定的に裁判官を訝(いぶか)しがるのはどうなのか?


変な国だ。


裁判員制度が、もうすぐ否応なく、国民の意思に反して?始まろうとしている。


職業裁判官や検事や弁護士にも利権が生じる可能性が大いにある立場であり、情報操作が、過去も現在も未来も有り得ないと言い切れる状態にはない。


検察側にしても、弁護側にしても、裁判員制度が始まれば、アメリカの陪審員制度のように民間から選出された裁判員に対して情に訴えることを含めた情報戦を繰り返すことになるのだろう。


これは情報操作でもある。


職業人でも民間人でも、良心を持って、平常心を持って、原告被告に中立的な立場で視点で判断し、人が人を裁くのは、生易しいことではないし、現実的に無理なことも多いはずだ。


だから、冤罪が多発しているし、もしかしたら冤罪で刑罰を受けたままになっている人もいるかもしれない。


例えば、今回の件を考えれば、企業から託された検事と個人の記者を擁護する弁護士どちらが成功報酬が高いだろうか。


なんて事もひとつの見方としてはある。


例えば、いくら科学捜査が進んでいるとはいえ、事件当時その場にいなかった人々が予測の範囲を補う捜査でそこにいたかのように、事実を手に取るように知ることは、裁定することは、無理といっていい。


裁判員制度を見込み、取調べ状況をDVDなどの記録メディアを使って裁判資料とする案があるが、一般市民でも知っている通り、映像や音声の編集は一般市民でもちょっと知っていれば簡単にできる。


誘導尋問や脅しや脅迫で自白を迫っているのではないかといわれている取調べに対し、この記録メディアというのは説得力があるのだろうか?


むしろ、どうにでも都合よく編集しようと思えばできるとすれば、解決策どころか、悪用される可能性が高くなる分、無駄な提案だ。


この点も性善説では、この案は妙案だが、性悪説に基づけば悪の温床になりかねないことを意味する。


悪事を目論む輩を排除するという意味合いならば、当然、性悪説で考えなくてはならない。



いずれにしても、実際にその場にいたわけでもない、見たわけでもない、予測の範囲で真実を知る術を得られるか、これは永遠の課題だろう。


少なくとも刑法は、性悪説に基づいて規定されている。


性善説では、処理できないことが多くなるからだろう。


情報操作は、蔓延している。それをどう判断するのか。今の現状は果たして理想的なのだろうか?