伊集院静さんの「それでも前へ進む」を読みました。

伊集院静さんがお亡くなりになったことは本屋の「追悼、伊集院静」というコーナーを見て知っていました。


私が思う伊集院静さんといえば、いつかの深夜番組で拝見したトーク番組でのこと。

「こういうトーク番組にでるのは初めてだから緊張してますよ」と仰りながら椅子にふんぞりかえって座り(いつもの?)毒舌で司会者をやり込めていらっしゃいました。

でも私がそれまで読んだ伊集院静さんのご著書「いねむり先生」や「機関車先生」の伊集院さんの言葉選びはどこまでも優しくて、どこかに不調があるひとや、孤独や失望、喪失から悪い方向へ逃げる人たちを叱咤激励するわけではなく、その人のそのままを受け入れて優しく包み込むのが伊集院静さんの言葉でした。

どちらが本当の伊集院静さん?そんな愚問をかけたくなる気持ちもしますが人間には多面性があるという伊集院静さんのお言葉通り両方の顔が伊集院静さんという人なんだなと畏れながらおもうのです。

いつかの「徹子の部屋」追悼番組で夏目雅子さんが「デパートで買ったお惣菜を温めてお皿にのせてテーブルに出しても分かりませんよね?バレませんよね?」ととても嬉しそうに黒柳さんに聞いていたことを思い出しました。

伊集院さんは今、ご自身と同じように繊細で純粋なひとのところへいかれたのですね。

「それでも前へ進む」には伊集院静さんの、物事や人物を見る優しい眼差しと大切な人々の生死を見守った人にしか書けない文章が綴られています。

「親は死をもって子に最後の躾をする」というお言葉に私は激しく共感しました。


胸を張って坂の上の雲を見上げながら歩き続けた伊集院静さん、坂の上の雲の中で安らかにお眠りください。(クマのように雲の中でフワフワと安らかに)

伊集院さん、有難うございました。




「それでも前へ進む」の三章には作家さん達それぞれの伊集院静さんへの追悼文が書かれています。
ここでも伊集院静さんの「多面性」が見えてきて、御本人がこれをお読みになれば怒るかしら笑うかしらと思いを馳せなんだか楽しい気持ちになります。

亡き御人に[楽しい]という言葉を使うことはいけないことと知りつつ、やっぱり少し微笑ましく思ってしまいます。
伊集院さんには「けしからん」と怒られるかもしれないけれど…