ゴーンガール観てきました
ひさしぶりに新作映画を劇場で鑑賞したので、感想書いてみようと思います
※激しくネタバレします




















そもそもこの映画を勧めてくれたのが、
知り合いの頭のいい女性デザイナーだったのですが
観終わった後、なんとなくその理由がわかった気がしましたw

初めは普通のミステリー的な展開。
有名な絵本作家の娘が失踪し、夫が警察に通報。
しかし実は夫婦仲が良くなかったことを妹に漏らす。
序盤、いくら有名作家の娘で、代表作のモデルだったとしても、
対策本部の立ち方の早さや過剰なテレビアピールが引っかかり、
本の宣伝のための全員のヤラセ?などと思わされましたが、
これは脚本のトラップだったのかも。
雑誌のクイズコーナーのライターをやっていた妻が、
結婚5周年の贈り物の隠し場所を手紙で誘導する、というあたりも、
彼女の頭の良さを現しながら、物語をミステリー的に導いていくレトリック。
観客は犯人が誰なのか想像しながら、なんとか裏をかいてやろうと映画に釘付けになる。
不自然に抜かれる警官、
謎の野次馬女、
ホームレス、
妻の両親、
ホームにいるボケた夫の父…
ストーリーテラーは妻の日記の独白で、
家中のあらゆるところで日記を書く姿が映されていく。
映画の役割としてはストーリーテラーでありながら、その姿がだんだん
「仕事に執着する物書き」にもみえてくる。
そして、中盤ガラッと姿を変えて登場するのが初めの見せ場。
夫に殺害の疑惑を被せ、不倫の復讐をしたことを中盤で告白するのだ。
彼女は自ら「gone」した。
(タイトルの英語の使い方も面白い。ゆえに和訳できなかったのだろうけど。)

まんまと世間と夫を罠にかけ、
意気揚々と新生活をはじめた彼女。
しかし、鼻持ちならない彼女を映画は許さない。
ほんの些細なスキから、彼女は全財産を失う。
車を売って得た金を、カジノで増やそうとして完全撃沈。

この辺りの彼女のもろさ、
完璧に思える彼女の振る舞いの中の穴は、
こんなに頭が良いのに今無職であることに整合性があり、
脚本の質の良さを感じる。
「私は頭がいいのよ。私は完璧なのよ」
という驕り、承認欲求の強さが、彼女なのだ。
その理由もはっきり序盤で語られる。
絵本の中の「エイミー」と現実のエイミー。
母親はそこまで彼女に求めたわけでもないだろうが、
エイミー自身の生来のプライドの高さが災いし、
フィクションとすら戦う負けず嫌いな女へと勝手に育っていったのだろう。
エイミーの迷走は、高校時代の彼女の、
背伸びした格好やメイクにも綺麗に整合性が取れている。
初彼に同じプライドの高いインテリ系を選んでいるのも納得がいく。
本当にいる誰かを下敷きにしているかのように、彼女はリアルなのだ。

夫側は地味だ。
どこにでもいるUターンした中年のおじさん。
地元の仲間と馬鹿騒ぎし、妹と遊びのような店をやっている。
少しプライドはあって、「俺の店だ」なんていうけれど
その店の名義は妻。
一貫して小物で優しく、勝ち目がないのだ。

そんな夫、ニックの唯一の見せ場がテレビシーン。
妻が喜びそうなことを囁き、妻をまんまと帰還させるのだが
私はあれは本性から言ってたように思える。
支配者側と被支配者側の、SとMの、倒錯。
性生活こそノーマルに描かれているものの、家庭内の力関係は歴然。
そこに全く納得していなければ、子供を欲したり別居せず暮らしたりすることはないはずだ。
こんなに近くに妹が住んでいるなら、浮気する前に別居しているはず。
にも関わらず、妹には「地獄だ」とか言いながら生活を続けていたのは、
ニックがそれを半分望んでいたからに他ならない。と思う。

エイミーは「サイコパス」と呼ばれ、実際そうなのだろうが
私は行動は置いておいて、衝動には共感するところも多々あった。
自分の思い通りにいかない現実。
その主要因(主にパートナー)を破壊することで、
より素晴らしい自分へとステップアップしながら
人生を再スタートする。
ニックに子供を迫った時の、あの時のエイミーこそが一番の本音でいたエイミーだったのだと思う。
しかし今度は「破壊」ではなく「創造」によっての再スタートを…
と書いたが、後半の「エイミーが子供を求めていなかった」というくだりもある。
とするとあれは創作なのか…やはり破壊しなければ先に進めないタイプなのか。
ここは意見が分かれるところかもしれない。

んで、私が見終わって気になったのが、
「この物語は誰の視点からの物語なのか」
ということ。
第三者にしては身内に、特にニックにより過ぎているし、
ニックにしては最後子供を受け入れるところでぐっと観客は置いていかれる。
本当に自分の子供か、もしくは子供が出来ているのかすら定かではないのに
(近所の妊婦の尿が全て捨てられている保証もない)
あろうことかテレビで、笑みまで浮かべて発表するニック。
それはエイミーの失踪を発表した記者会見の時の、あの笑みと同じだ。
彼は楽観的で、流れに押されれば、
求められていることをベストパフォーマンスでやってしまう。
そのことをエイミーはよくわかっていることは、描写もあった。
つまりあのタイミングでの妊娠告知は、エイミーの誘導である可能性が極めて高い。
帰ってきてからまだ5日で、ニックも仕事なんかしてないだろうから、医者に行く暇などなかったはずなのだから。
でも降参してしまうニック。それを見ている視点は、つまり、ニックの妹マーゴなのではないか。
この物語は頭から最後まで、マーゴの視点で描かれている。
頭の良い義姉に振り回される駄目兄。
女2人の一人の男を巡るバトルとして仕上がっている。
「私にだけは全てを話して」という彼女。
挨拶代わりに「love you」と言い合う兄弟は、
いくら向こうの国でも少し違和感あるだろう。
故郷に戻り、妹の存在が、エイミーを刺激したのは想像に難くない。

この映画の良いところは、描かれていないところに想像の余地があり、ヒントがたくさん含まれていることだ。
つまり結婚生活3年目~5年目と、この後の生活。
映画の前後を感じさせるのは、あえて回想などを「事実として」見せるのは最小限にし、
映画の描いている時間を明確に限定したことでもたらされている。
左下のカウントも効いているわけだ。うまいねぇ。

私の妄想では、きちんと本当に種付け出来たのはこの3ヶ月後とかで、
エイミーはこの体験を執筆しベストセラーに。
エイミーと産まれた子(おそらく女の子)はそっくりに成長。
ニックはニャンコとともに家の外に追いやられ、庭の手入れなどをして老けていく。
マーゴはそんな愛する兄を見ていられず他州に逃げるが、頻繁に連絡をよこす。

描かれていない結婚生活は、おそらくどこにでもある3年目の結婚なのではないか。
それがこの映画を「結婚ホラー」たらしめていると私は思う。
ときめいていたハンサムはお腹の出たおじさんになり、
絶世の美女は見慣れたおばさんになる。
どちらも悪くないが、どちらも良くない。
映画の中で描かれているエイミー曰くの結婚生活から考えると、
大きな事件が起こらないことが一番の事件だったのだろう。
マンネリの恐怖はどんなカップルにも忍び寄る。
エイミーを突き動かしたものは、マンネリの恐怖だ。


最後の上映だったけれど、映画館は8割くらい埋まっていた。
ほとんどがクリスマスめがけてくっついたであろう初々しいカップル。
ナマナマ菌でいうところの「イベントラバー」だ。
作品の中の人たちは亜熱帯で超薄着なのに、
こんな時期に公開時期を設定してきたあたり、配給側の意図を強く感じる。

カップルで来ている男の子の方は、
「うわ~完全に気まずい。失敗したぁ~」
という顔をしており、
女の子の方は
「ちょっと面白かったかもー。女ってこういうとこあるよね。わかるわかる。」
という顔をしていて、
それぞれ非常に面白かった。

一人で来ている男の人は、下を向いていた。

一人で来ている私みたいな女はほぼいなかったが、
帰りしなそんなことを考えながらニヤニヤしていたら
席に大量に忘れ物をして、お下げ髪の少女が届けてくれました。本当にありがとうございました。