1992年度の米国🇺🇸アカデミー賞で主要な賞を独占した感がある作品といえば『羊たちの沈黙』です。主演男優賞にアンソニー・ホプキンス、主演女優賞にジョディ・フォスターなどですね。
まだDVDソフトが📀高額な頃に特別編なるものが発売され購入しました。特典に二つのドキュメンタリー、未公開シーン集、NGシーンなど充実の内容です。アンソニー・ホプキンス演じるところのハンニバル・レクター博士と犯人役の演技が真に迫り過ぎていて、NGシーンでホプキンスがふざけて笑いを取るところなど見てホッとしたものでした。そうだ、これは演技なんだと。。。それほどまでに見事な演技でした。
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それで、人間の暗部と闇ということについてホプキンスはインタビューの中で
「人間の暗部を無視するということはつまらないことだ。」
という旨の発言をしています。誰にでも明暗はあるはずで愛情、喜びや楽しみがある反面、同じ人間の中に悲しみ、怒りや失望また憎しみが同居しているというのは別段おかしなことではなく、不完全な人間であるからこそそれはむしろ当然のことだと思われます。
悲しみがあるからこそ喜びを感じるというわけで、悲しみも知らず喜びばかりではその内それが当たり前になって嬉しくもなんともなくなってしまうのではないでしょうか。
現実問題として善と悪の相克があり葛藤が生まれるのが人間であり、ドラマチックであるともいえると。それを無視するのを空々しく感じるのは当然です。勧善懲悪の物語があまり記憶に残らないのもそういうことだと思います。
正義の味方が悪の化身をやっつける的なお話は単調で奥行きもなく味わいがありません。
「泣いた赤鬼」という有名な童話では紆余曲折の後、最後に赤鬼は村人に迎え入れられてめでたしめでたしと終わるけど、青鬼はその後どうなったのだろう? 赤鬼のために自己犠牲を払って身を捧げた青鬼は? という視点は大事です。
黒澤明の『七人の侍』で野盗を追い払った武士たちは結局村人に受け入れられませんでした。その後どうなったのか?
仏教でもキリスト教でもそういった人間が抱える業であったり、運命であったりを奥深く探求して幾らかの答えや到達点をみたところを延々と引き継いできた歴史。
もうひとつだけ。レクター博士は実のところ「善人である」との発言というか解釈です。あれだけの人々を惨殺してきた殺人鬼が善人!? 直ちには受け入れがたいことです。
旧約聖書において楽園にいたアダムとエヴァはサタンにそそのかされ、あれほど神に戒められたことに反して善悪を知る木の実を食べ堕落するという物語は、人にはそもそも善悪など決めることはできないのだという真実が顕されていると思います。それぞれの正義を振りかざして争うのも、それぞれが信じる正義があるからで、そもそもそれが争いの元になっている。そういう風に捉えると、レクター博士が善人であるという意表を突く解釈のヒントになるのでは。。。
仏教は偉大なる中庸の教えであるとする捉え方があり、キリスト教というよりユダヤ教を源流とするイスラム教を含む砂漠の宗教は唯一絶対神が全てを創造し善悪の区別も裁きも行う。イエス・キリストの登場はその大きな転換点であることを考慮しても、偏りなくバランスを取ることと絶対的基準を設けて価値善悪の判断をすることの違い。
和魂洋才という西洋の技術だけ受け入れるというのにはそもそも無理があり、西洋の魂から生み出されてきた技術として理解しなければならないのでは? 日本の文化芸術を真に理解するにはその精神性・魂が根本となっていると捉えないことには表面だけをなぞる程度に終始する結果になるであろうことと同様でしょう。根源は魂の違いから生じる価値善悪についての判断基準の相違。
レクターは敬虔であったけども教会から破門されたダンテ研究の権威という役どころです。
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かなり難解なことを思いつくままに書いてしまいまとまりが就かなくなってきていますが、改めて熟考して自分のひらめきと気づきを表現する努力を重ね、またの機会に記させていただきたいと思います。もっとわかりやすく読みやすい様にしないとダメですね👎
