ここのところ、
母との会話が上手くいかない。
彼女が一方的に話すが
それはどことなく「間を埋めよう」と、「機嫌を取ろう」と。
私は一連の話を聞きながら
「何がしたいんだろう」と、「何でそんなことを言うのだろう」と。
モヤッとするんだけど、
問題のコアが見えてこないんだよなぁ。
今日思ったのは、
私は、母に
“一人間としての(価値観の)尊重”を
求めているのではないかと。
高校のころから浪人、大学のはじめにかけて
「知らない間に人生のレールが敷かれていた」
「知らない間にそのレールの上に乗せられいた」
という、一種の被害者意識を
家庭の二人、特に母に対し持っていた。
なんでそうなったか、。
「考えるスキを与えられなかった」から。
気付いたのは、ほんの2、3日前。
もちろん他にも理由はあるかも。
「考えるスキを与えられなかった」というフレーズは
母を主語にすれば、助動詞は"not able to"、
私を主語にすれば、"cannot"。
母は知らなかった。
こどもに
考えさせかたはもとより、考える時間を与える、
という選択肢があることを。
母は器用なので、
もしかしたら、そんな一見プラスアルファに見える作業を
必要と感じてきたことが無かったのかもしれない。
私は誤解していた。
問題の解答はすぐに見つけなければ、そして答えられなければ
自身に意見を主張する権利はない、と。
また、
母はわからない。
意見の擦り合わせ方を。
そして私も気付かなかった。
こういった矛盾に。
だから年齢が増すごとに身体が壊れていったのかもね。
これはもう、
どちらも経験の少なさや境遇、性格や気質、
得手不得手、思考パターンなどが要因で
いわゆる個性の相違なんだからしゃーない。
だから、
「レールどうこう」っていうのは
互いにどーしょーもなかった。
互いにリソースがなかったり、気付かなかったりしたんだから。
もっぱら違和感のみで。その違和感を悩んでいい事も知らなかったわけだけど。
こう考えると、日頃からなんとなく感じていた
「母は“母親の仕方”がわからないんだろうな」という点も
繋がってくるね。
母のことはこの際どうでもよいにせよ、
(放り投げる意味ではないよ)
私が私自身をどうこうすること、が見つけられないのは痛いぞ!
自分の物理的領域、精神的領域の範囲って?
構成要素それぞれの深度って?
悩むべき項目の場所って?
コントローラーの調節つまみの位置って?
むむー、掴めない。
これではこれからが困る。
文字面だけ見ると
箱入り娘みたいだけど(笑)
あくまで私の予測ですが、どっちかというよりむしろ
母からすれば、私はまだ母体の一部なんだろうと。
その一般的にありがちな感覚が異常に強すぎることも
気付いてないんだろうと。
本人がそうだから(笑)
わたくしとしては、
子宮っていう拘束具を外すために
身体のあらゆる部分に絡まってるソレに気付く視力を
鍛えていく必要がある。
一方で、母には
拘束具はときに
意に反してこどもの未来や可能性を奪っていることを
(そして、それが既に明らかに起こっていることを)
認識してもらう必要がある。
でないと私が将来的に困る(笑)
というか、もう困ってるww
こどもも一人の人間ですよ。
ましてや、もう大人ですよ(笑)
個性が違うんですよ。
貴方とは別の人間なんですよ。
他人との対話と同様の対応をしないと“コトバ”は通じないのですよ。
自分の持つコミュニケーション道具が相手に不適合なら
一切使わないか無理と知りながら使うの二者択一ではなく
複数の選択肢を自分なりに考えて、持ちましょうね。
いま流行のダイバシティですよ。
最後のほうは特に
よく聞く理屈になっちゃった(笑)
まー、
これが、こちらも上手に体現できてないから
悩むんだけどね(笑)
対人、対自分共にね。
修行が足らんなー。
こういう考え方も、
働いてた会社の社長に出会うまで
気付けなかった考え方だな。感謝。
TVか何かで投げかけられた、
「自分にこどもができたら、どんな人間に育って欲しい?」
との問いに、
「自分の納得する人生を歩む人間」
と答えた。
私がそうなりたいのかもしれない。