――視界に雪景色が広がっている。
遠くの方からゆっくりと歩いてくる、誰か。
その誰かを私は知っている。
知っているはずなのに、名前を呼ぶことができない。
もどかしさでいっぱいになったとき、彼女が私の目の前で足を止めた。
その手が私に触れた瞬間――私は溶けた。
彼女の手のひらの上で、この身を溶かした。
そのとき私は気が付いた。
自分が、雪景色そのものになっていたことに。
The Last Episode
『寒空の彼方』
季節は春から夏に移り変わり、6月に入った。
昨晩から降り続いていた雨が昼過ぎにようやく止んで、理佐のお見舞いに行こうと準備をしていたとき、テーブルの上のスマホが鳴った。
勤務中の瑞穂からだった。
『友香、渡邉さんが意識を取り戻したよ!』
「本当?」
『ああ。まだ頭はぼーっとしているみたいだけれど、そのうち話もできるようになるはずだよ』
一ヶ月近く眠ったままだった理佐が、目を覚ました。
電話を切った後、準備がまだ途中だったことも忘れて私は身の回りの荷物を掴み家を飛び出した。
途中でタクシーを捕まえて乗り込み、愛萌ちゃんに電話をかけながら、病院に着くまで助手席のシートを強く握りしめていた。
病室のドアを開けると、理佐はベッドで上体を起こして座っていた。
「渡邉さんっ」
理佐の姿を見てすぐ、愛萌ちゃんが彼女に飛びつく。
愛萌ちゃんの目に浮かぶ涙が伝染して熱くなった目頭。
よかった、よかった、と繰り返す愛萌ちゃんに理佐が微笑んで、愛萌ちゃんの背中に手を伸ばす。
でも上手く力が入らない様子でゆっくりと手を下ろした。
「理佐」
愛萌ちゃんを見つめていた理佐が顔を上げて、目が合う。
「メッセージ、茜に送ってくれてありがとう。茜に届いたよ」
理佐が目を覚ましたら真っ先にお礼を言おうと思っていた。
私が届けられなかった想いを、茜に届けてくれた。
諦めかけていた心に希望の光を繋いでくれた。
「そう、か……よかった」
理佐から腕を離し、涙を拭った愛萌ちゃんがぽつりと呟いた。
「守屋さん、帰ってきてくれないかな」
きっとここにいる誰もが思い浮かべているであろう言葉に、答えられる人は当然いるはずもなく静寂が流れる。
茜がメッセージを読んでどう思ったか、それは分からない。
でも待ち続けると決めた。
この先どれだけ長い時間が流れても、自分の気持ちが揺らぐことはないのだから。
「そういえば……」
ふいに理佐が呟いた。
「夢を、見たんだ。茜の」
「茜の?」
頷いた理佐が続ける。
「雪景色の中で、遠くの方から誰かが歩いてくるのが見えて。目を凝らしたらそれは確かに茜だったんだ。相変わらず薄着で、でもその目には強い意志が宿っていて、まっすぐ前を見て歩いていた」
理佐が話す夢の情景を頭の中に思い浮かべる。
夢の中でも会えたなら、どれだけ幸せなのだろう。
たとえそれが、自らが都合よく作り上げた彼女の姿だったとしても。
「……悪い、少し横になりたい。宮田、手を貸してくれないか」
愛萌ちゃんが理佐の背中に手を添える。
理佐が枕に頭を預け、愛萌ちゃんが私の隣に戻ってきたとき、背中でドアの開く音がした。
「渡邉さん」
その声だけで瑞穂だと分かり、私は振り向く前に端に避けた。
入ってきた瑞穂が、さっきまで愛萌ちゃんが立っていたベッド脇で足を止め、理佐に向かって深々と頭を下げた。
「渡邉さんを襲ったのは、私の部下です。本当にすまなかった……」
「土生先生……」
頭を垂れたまま微動だにしない瑞穂に理佐は数秒戸惑ったような表情を浮かべていたけれど、そっと瑞穂の顔を覗き込みながら、もう一度「先生」と声をかけた。
ようやく少しだけ頭を上げた瑞穂に、理佐は微笑んだ。
「先生は私の恩人です。だから私が退院するまで、診てよ、先生」
「――理佐、退院おめでとう」
「退院日まで迎えに来てもらって悪いな」
「何言ってるんですか渡邉さん。水臭いですよ」
理佐が目を覚ましてから2ヶ月、退院日を迎えた。
理佐は意識を取り戻したときから手足に軽い痺れがあったらしいけれど、今日までの懸命なリハビリを経てゆっくり歩けるまでになった。
「……少しずつ、前に進んでいかないとな」
理佐が照りつける陽射しに目を細めながら笑う。
愛萌ちゃんが深く頷いて数歩前に駆け出す。
私は理佐の言葉を胸の中で反芻する。
「菅井」
ふいに理佐に呼ばれ、顔を向けた。
「菅井は、茜がまた冬を知らせに来てくれるって信じてるよな?」
「もちろん、信じてる」
「……そうだよな。聞くまでもないよな」
理佐が地面に目を落とし、ゆっくりと目を閉じた。
「夢を見たとき……茜が、何かメッセージを伝えに来たような気がしたんだ」
「メッセージ?」
「それが何かははっきりとは分からなかったけれど、もしかしたら――」
そのとき、少し前を歩いていた愛萌ちゃんが立ち止まった。
「あれは?」
愛萌ちゃんが指差した方を見る。
そこに飛んでいたものを見た瞬間、私は無意識に呟いていた。
「ユキムシ……?」
白い、小さな綿のようなそれは、意思を持っているかのように宙を泳いでいた。
愛萌ちゃんが首を傾げる。
「え? でもまだ8月ですよ?」
「私が茜と初めて出会ったときと同じだ。まさか……」
二人の声を聞きながら、私はそれに目を奪われていた。
ただ待っているだけの今は、"前に進めている"と言える?
追いかけなきゃ、何も変わらない。
伝えなきゃ、相手には何も届かない。
私は駆け出した。
一瞬でも目を離したら消えてしまいそうで、懸命に追いかけた。
背中から生温い追い風が吹き始める。
宙を舞う白が速度を上げて遠ざかる。
茜。
待って。
もしかして冬を知らせに来てくれたの?
まだ早いなんて、そんなの気にしなくていいよ。
私は、茜と初めて出会った日の寒空を今でも鮮明に思い出せるから。
またあの日のように凍えているのなら、私がその身体を覆ってあげるから。
もうどこにも行ってほしくないんだ。
「お願い、待って、茜っ――」
そのときふいに、ぴたりと止んだ風。
飛んでいた白が動きを止め、その瞬間私は宙に向かって必死に手を伸ばした。
花びらのように軽やかに舞い降りてきたそれは、私の顔の前まで来て、咄嗟に手のひらで受け止めた瞬間――静かに消えた。
幻影のように、消えた。
思い出したようにやってきた陽射しと暑さ。
私は手のひらを見つめたまま、額の汗が頬を伝っていくのを感じながら、しばらくその場に立ち尽くしていた。
ひんやりとした風が、全身を通り抜けた。
"今年は暖冬で雪が降らないかもしれない"
はっきりとしない意識の中で、ニュースキャスターのその言葉がやけに頭に残っていた。
テレビを点けたまま眠ってしまったのかと慌てて起き上がったとき、目に入った光景に驚く。
部屋で眠っていたはずなのに、どういうわけか目の前には街並みが広がっている。
それも、今住んでいる街ではなく、一人暮らしをしていたときの……。
不思議に思っていたとき、視界の端を何かが通り過ぎた。
すぐに目をやったけれど何もない。
でも直感的に、分かった。
「茜? 茜なの?」
名前を呼んだ次の瞬間、長く焦がれていた姿が、目の前に現れた。
「茜……あかねっ」
「……あたしは、冬を知らせる存在でいるくらいが、丁度いいの」
茜の声がはっきりと聞こえる。
でもなぜか触れられない。
この手が、届かない。
もう一度名前を呼びたいのに、声が出ない。
「でも……忘れないでね、あたしのこと」
茜が私の手を握る。
その指先は冷たいのに、なぜか、不思議な優しさを感じた。
「これから何度、冬が巡ってきても」
その言葉を最後に茜は口を閉ざした。
でもその目は少しもぶれることなく私を見つめていて、私の言葉を待っているかのようだった。
私は息をゆっくりと深く吸い込み、口を開いた。
「忘れないよ。これから何度、冬が巡ってきても」
ううん。
冬が巡ってくるたびに、私は茜と過ごした日々を鮮明に思い出すだろう。
決して色褪せることなく、何度でも。
くしゃりと笑った茜の目尻から涙が溢れる。
そんな彼女を、私は心から愛おしいと思った。
茜の涙は頬を伝って私の手のひらに落ち、まるで溶けた雪のように、痕を残した。
手のひらをそっと握って胸に当て、目を閉じる。
冷たい風が前から吹いてきて顔を上げると、茜の姿はなくなっていた。
「……忘れないよ」
この温もりは、冬の幻影なんかじゃない。
確かに私の手のひらに残る、あの子の証。
次に目が覚めると、部屋のベッドの上にいた。
時計を見ると明け方の4時過ぎ。
夢だったのか……。
息を吐きながら心の中で呟く。
茜の声も、その感触も、確かに残っている。
でも夢の中の彼女はまた、私の前から消えてしまった。
それが、彼女の答えなのだろうか。
「――友香。本当に大丈夫なのかい? 一人で」
「うん。ありがとう、瑞穂」
私は背中のリュックの重さをずっしりと感じながら、上がり框から立ち上がった。
少しの間、一人で旅に出ることにした。
瑞穂とは話し合いをして離婚することに決めたから、いつまでもこの家にいるわけにはいかない。
それに、しばらく一人きりで考える時間が必要だった。
「何か困ったことがあったら、いつでも私に連絡を――」
言葉を止めた瑞穂を振り返って見る。
「……いや。私は過ちを犯した。話し合いで決めた通り、もう、あなたの伴侶を名乗る資格はない。でもあなたが許してくれるのなら、また一から、あなたに想いを寄せる一人としてやり直したいと思ってる。だから友香が本当に困ったときは、いつでも頼ってほしい」
瑞穂の手が伸びてきて、優しい力で抱き締められる。
「友香。あなたは私を変えてくれた。短い間だったけれど、たくさんの幸せをありがとう」
瑞穂が嗚咽を必死に堪えているのが頭上から伝わってきて、移ってしまわないようにそっと瑞穂から離れる。
「ありがとう、瑞穂。こんな私をいつまでも想ってくれて」
瑞穂に背を向けて、傍らのキャリーバッグの取っ手を掴む。
ドアを開け、私は寒空の下をゆっくりと歩き出した。
今日は、初めて茜と出会った日からちょうど一年。
自動販売機で温かいルイボスティーを買い、一口飲む。
飲み慣れているはずなのになぜか懐かしい味が口の中に広がった。
理佐や愛萌ちゃん、瑞穂も、少しずつ前に進んでいる。
私も前に進まなければいけない。
前に、進まなければ……。
壁についた手。
堪えきれず溢れ出す嗚咽。
あの夢はきっと、茜が別れを告げに来たのだ。
もう決して増えることのない、限りある思い出だけを抱き締めながら、これからずっと生きていけるだろうか。
寒い季節が来るたびに寂しさに潰されはしないだろうか。
――忘れないよ。これから何度、冬が巡ってきても。
夢の中で茜と約束したはずなのに、急速に萎む自信。
あまりの情けなさに引きつった笑みが浮かぶ。
"笑顔が不自然。心から笑ってないでしょ"
どこからか茜の声が聞こえてきたのは、そのときだった。
「あかね……?」
ふと、初めて会った日にも彼女に同じ言葉を言われたのを思い出した。
あのときの私も、心から笑えていなかった。
でも茜を好きになってからは、心から笑えている自分がいたんだ。
それなのに、今の私は……。
彼女の声が記憶の悪戯だということは分かっていた。
それでも彼女の言葉に応えたくて、応えてほしくて。
真っ暗な空を仰ぎ、私は呟いた。
「上手くできるか分からないけれど……精一杯、笑ってみるよ」
どこまでも続く寒空の彼方にいるであろうあの子に向けて。
精一杯の、笑顔を。
"何だ。ちゃんと笑えるじゃない"
さっきよりも少し明るくなった空から、あの子の笑う声と、一粒の淡雪が降ってきた。
THE END.