固く閉ざされた家のドアの前。
 
初めて、一日中空を仰いだ日。
 
 
あの日からずっと、私はユキムシになりたかった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
Episode  23
 
 
 
冬の虫 ところさだめて 鳴きにけり
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
――気が付くと、病院のベッドの上にいた。
 
 
ここは見慣れた景色だから特別驚くことはない。
 
"ああ、また戻ってきてしまったのか"
 
そう思うだけ。
 
でも窓の外で桜の花びらが舞っているのには驚かずにはいられなかった。
 
一瞬、時が戻ったような錯覚に陥ったから。








理佐の家を出た後、人気のない道をひたすら歩き続けて、夜が明けてからたどり着いたのは、約5年振りの実家。

庭に入ると、玄関ドアの前にくたびれたシャツを着た背中があった。
 
足元の砂利を踏みしめたとき、その背中がゆっくりと振り返る。
 
「……茜? 茜か?」
 
返事をする代わりに、あたしはさらに一歩踏み出して砂利の音を鳴らした。
 
記憶の中よりもしわがれた声。
 
深く刻まれた顔中の皺。
 
「今までどこに行っていたんだ? 心配してたんだぞ」
 
変わらないのは、心の中を土足で侵食してくるような眼差し。
 
「会いたかったよ」
 
カサカサの手に肩を掴まれ、そのまま家の中に促される。
 
家の中は前以上に荒れ果てていて、足場がなくなっていた。
 
狭くて散らかったリビングの奥――静かに横たわる身体。
 
「お母さんはな、ずっと具合が良くなくてこの調子だ」
 
そこにあったのは、見る影もない母の姿だった。
 
二人ともたった5年でずいぶんと老け込んだな、と思った。
 
「それにしても、相変わらず……色白だな」
 
あたしの身体を上から下まで見つめるこの人。
 
この人はあたしの中ではもう、父親じゃない。
 
「茜、お腹は空いていないか? 何か食べたいものがあれば――」
 
「大丈夫。それよりもちょっと部屋で休みたい」
 
まだ何かを言いたげな視線をかわし、あたしは階段を上った。
 
 
ドアを開けると、真っ先に埃臭さが鼻につく。
 
窓を開けようとしたけれど蜘蛛の巣が張っているのを見てやめた。
 
布団に横になりながら、どうしてここに帰ってきたのだろう、と考える。
 
ここは確かにあたしが育った家だけれど、でもあたしの居場所ではない。
 
きっと理佐の家を出てから一睡もしていないから、眠れるところを探して彷徨って、偶然ここに辿り着いただけだ。
 
下の階から聞こえてくる声をぼんやりと聞きながら、ゆっくりと目を閉じた。
 
 
瞼の裏で、照りつける夏の太陽の暑さを思い出す。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
――おい茜。お前の肌はどうしてそんなに白いんだ?
 
 
小学生の頃だ。
 
容赦ない陽射しが降り注ぐ夏のある日、友だちと夕方まで遊び汗だくで家に帰ると父にそう言われた。
 
確かに、友だちは顔や腕に日焼けをしていた。
 
でもあたしの肌は白いまま、焼けることはなかった。
 
不思議に思って学校で保健室の先生に打ち明けると、
 
"茜ちゃんはきっと、雪の妖精さんなんだね"
 
と笑ってくれた。
 
あたしも、そうだったらいいと思っていた。
 
 
でもある休日の朝、リビングに下りると両親が突然あたしに言った。
 
 
"お前は病気かもしれない。それを確かめてやる。今日は一日中外に立っていろ。いいか、ずっと陽に当たっているんだぞ"
 
"おひさまは栄養をくれるから、病気を治してくれるのよ"
 
 
他の皆と違うことはあたしも気になっていた。
 
病気という言葉を聞いて急に不安になったあたしは両親の言葉を受け入れた。
 
 
でも本当は両親が、あたしの肌を"ただ単に面白がっていただけ"だということに気が付いたのは、その数日後だった。
 
開け放たれた窓から二人の笑い声が聞こえてきた。
 
 
"あれは絶対に普通じゃないわ"
 
"どこかの研究機関に情報提供すれば謝礼がもらえるかもしれない。そして俺たちも有名になれるな"
 
"産んだからには、それくらい価値がなくちゃね"
 
 
あたしは何も言えなかった。
聞かなかったフリをした。
 
それからも両親は休日になると、毎回のようにあたしを炎天下に立たせた。
 
暑い。
 
眩しい。
 
自分の汗がゆっくりと肌を伝い流れていくのが気持ち悪い。
 
それでもこの肌が色を変えることはなく、そんな生活が続き中学生になると、身体に異変が起きた。
 
暑い日に、身体がひどく消耗するようになった。
 
炎天下に出ると激しい目眩がするようになって、立っていられない。
 
学校に行くことも困難になって、雨の日以外は休むようになった。
 
一度、両親が二人で外出した日、どうしても身体が動かなくて言い付けを破り外に出なかったことあった。
 
帰宅した両親は激昂して、あたしはたくさん叩かれ、たくさん謝った。
 
 
"勝手なことしてごめんなさいっ、ごめんなさいっ、ごめんなさいっ……!"
 
 
その瞬間、自分の中で、何かが真っ黒に煤けた。
 
 
それから感覚が麻痺したあたしは、自ら外に出るようになった。
 
頭の中が焦げ付いてしまったかのように何かを考えることができなくなって、その頃の記憶は今でもほとんど思い出せない。
 
いつの間にか季節は冬に変わっていて、宙をちらつく雪をようやく頭が認識できるようになってきたとき、突然両親が家に帰ってこなくなった。
 
一人きりになっても変わらず外で過ごしていたあたしの前に理佐が現れたのは、その頃だ。
 
理佐は間違いなく、あたしが初めて心から愛した人だった。
 
両親が家からいなくなり、本当の独りになったあたしに手を差し伸べてくれた人。
 
彼女といればもう苦しむことはないのだろうと思った。
 
それでもあたしは、理佐とずっと一緒にいることは選ばなかった。

半分生きながら半分死んでいるようなあたしは、何かを与えられることはあっても、与えることはできない。

理佐から離れた後、あたしはまた体調を崩し病院で入院することになった。
 
入院初日、窓の外の桜を眺めながら、なぜか涙が出てきた。
 
 
 


子どもを幸せにできないのなら、産むべきではない。

それと同じくらい、人を幸せにできないのなら、恋愛なんてするべきではない。
 
……それでも、愛が、欲しい。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
激しく咳き込んで目が覚める。
 
気が付けば夜が明けていて、あまり眠れた気がしなかった。

動くたびに埃が舞い上がる部屋を出て階段を下りる。

「茜、おはよう」
 
狭い台所では何かを焼く音と、焦げ臭さが漂っていた。

リビングの母は昨日と変わらず同じ場所に横たわりこちらに背中を向けたまま、ぴくりとも動かない。

遠目では呼吸をしているのかさえ分からない。

でも意識があるかもしれないのに台所に立つ背中に母の生死を問うのはさすがに無神経だ。

それにしても、久し振りに娘が帰ってきても全く反応もできないほど病状は悪化しているのか。

いや、本当は反応できるのにあえてしないのかもしれない。

虫の息を装いながら、あたしの言葉の一つ一つに粘っこく耳を傾けているのかもしれない。

さりげなくその肩の辺りを凝視したとき、しわがれた声が近付いてきた。

「茜。ここに戻ってきてくれたということは、また一緒に暮らせるんだよな? 前みたいに」

平たい皿の上に真っ黒に焦げた何かを乗せ、リビングに入ってきた男。
 
過去などまるで忘れてしまったとでも言うように、あたしに媚びたような眼差しを向けるこの男。
 
「お前がいないと俺たちはだめなんだ」
 
彼に向けて、あたしは問いを投げかけた。

「ねえ。どうしてあたしを産んだの」

焦げ臭い熱気が鼻をつく。

それだけで息苦しくなる身体。

「できちゃったから仕方なく?」

皿をテーブルに置いた手があたしの腕を掴む。

「何が言いたいんだ?」

炎天下に身を捧げていたあの日々の中で、あたしもこの焦げた物体のようになっていたなら、今ごろはもう新しく生まれ変われていたのだろうか。
 
本物の純白になれていたのだろうか。

雪の妖精なんて綺麗なものじゃなくていい。

ただ、一年に一度だけ、思い出してもらえる存在になれたのなら。

「お前は、俺たちの立派な――」

「立派な、玩具?」

あたしは皺だらけの手を振り払い、家を飛び出した。
 
 
 
……バカみたいだ。
 
見たくもない顔をわざわざ見に来て、思い出したくもない過去を自分で掘り起こして、あんな汚い部屋で一晩を過ごして、結局また家を飛び出して。
 

最初から、期待なんてしなければよかったのに。


外は陽射しが照りつけていて、暑くて、この身が真っ白な光に飲み込まれて消えてしまう気がした。


ホワイトアウト。
 
そんな最期が、きっとあたしには相応しい。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
過去から今に記憶が繋がったところで、病室のドアが開いた。

「久し振りだね。守屋さん」

そこにあったのは2年振りに見る担当医の顔だった。
 
彼は窓の外を一瞥して、ため息をついた。

「ずいぶんと無理をしただろう。4ヶ月も眠り続けて……それほど身体が危険な状態だったということだよ。前に説明したことを覚えているかい?」


"君は生まれつき特殊な体質だ。君の肌は、外部からの刺激をすぐに受け流す強い免疫作用が働く。ただ厄介なことに、受け流された刺激は体内に向かってしまうんだ。だから気温が上がる季節、特に陽射しが強い夏は、できる限り外に出てはいけない"

"ずっと外にいたことで身体がかなり弱ってる。正直言って危険な状態だ"

"だけど心配はいらない。春夏きちんと入院していれば、冬はある程度普通に生活できるようになるから"


初めて入院をしたときに説明された、自分の身体の状態。

でもあたしは知っている。

医者は、患者に希望を持たせるためにわざと励ますような話し方をすることを。
 
たとえ、そこに希望がなくても。

「どうせ普通には生きられないんだから、いいじゃない」

「きちんと入院していれば寒い季節は普通に生活できるんだ。でも無理したからしばらくは動いちゃダメだぞ」

掴んでいた掛け布団を握り締める。

"しばらく"っていつまで?

その問いを口にする前に、医師は病室を出ていった。
 
 
退屈で無意味な入院生活。
 
今までは秋になれば退院して理佐の家に行っていたけれど、今年はおそらくここから出られないのだろう。

今年は、ユキムシを見ることはできるだろうか。

ベッドを下りて窓際に移動する。

外を眺めていたとき、ふいに強い風が吹いた。
 
風に吹かれ宙を舞う桜の花びらたち。
 
それがまるでユキムシのようで、目を奪われた。
 
この景色を写真に残したい衝動に駆られて急いでスマホを探す。
 
ベッド脇に置かれたバッグの中から見つけ出して、久し振りに電源を入れた。

カメラを起動しようとしたとき、画面に一件のメッセージ通知が表示された。
 
理佐からのメッセージだった。
 
 
 
 

"「ただ触れ合っているだけで気持ちがいい」そう私に話したその温もりを、今でも思い出せる?"

 
 
"ねぇ、茜。次の冬が近付いてきたら、茜はどうする?"
 
 
 
 
メッセージに書かれていた問いかけに、抗えない感情が押し寄せた。
 
 
……分かってる。
 
本当は、ずっと、思い出さないようにしていた。
 
もう会うつもりもなかった。
 
メッセージもブロックして、電話番号も削除して、あの子の痕跡を全て消した。
 
この街に戻ってきたのだって、
 
"あの子と出会う前に遡れたら"
 
そんな愚かな願いを抱いてしまったからで。
 
だってあたしは、自分が幸せになることも、誰かを幸せにすることもできない。
 
それなのに、どうして余計に思い出させようとするの。
 
どうして忘れられないの。
 
あの子の名前を。肌の感触を。声を。優しさを。
 
 
愛おしさを。
 
 
思い出したら、止まらなくなってしまう。
 
会いたくてたまらなくなる。
 
触れ合っているだけで気持ちがいいその肌で、もう一度深く愛してほしい。
 
「友香……っ」
 
もう、抑えられなかった。
 

病室を飛び出したとき、廊下の反対側から歩いてきていた医師に腕を掴まれた。
 
「どこに行くんだ、守屋さんっ」
 
「離して!」
 
「安静にしていないとだめだ」
 
「行かせてっ、お願い」
 
「もうすぐ夏が来る。次に無理に動いたら、君はもうっ……」
 
そこで言い淀んだ医師をきっと睨みつける。
 
自分の身体の状態くらい、薄々分かってる。
 
ここで一生を終えるくらいなら、あたしは……。
 

「あたしの身体の特効薬は、愛なの」
 

制止の一切を振り切って病院を飛び出し、あたしは走り続けた。
 
走って、走って、走って……。
 



あの街へ。

一年前にあの子と出会った、あの街へ。

冬が近付いてくる前に。
 
 
 
To be continued...