ーー渡邉理佐。

その人の名前は学校中で有名だったからよく知っていた。

でも、同級生たちの間で「絶対に関わらない方がいい」って噂になっていたし、三年生は遠い存在だったからこのまま目も合わせることもないだろうって、漠然とそう思ってた。

あの雨の日、虚ろな目で立ち尽くすあの人を見かけるまでは。










夏休みを目前に控えたその日は朝からパラパラと雨が降っていて、昼頃にかけて雨脚が強まるというテレビの天気予報をのんびりと観てから、傘を持って家を出た。

いつものようにギリギリに学校に着き、静かにドアを開ける。

教室内がいつもよりバタバタしていると思ったらクラスメイトたちが体操着に着替えていて、一限目の授業が体育だったことを思い出して皆に続き手早く着替えた。

学校生活の中で唯一それなりに楽しめるバスケの授業。

靴底と床が擦れるキュッキュッという音を体育館内に響かせながら、周りをかわし、ゴールに向かって一直線に走る。走る。走る。

バスケをしている時間は他の一切を忘れられるから、好きだった。

つまらない日常も、耳にうるさく響く教師や同級生たちの声も。

背中の気配が遠ざかった一瞬の隙に、身体を浮かせボールを放つ。

綺麗な弧を描いてシュートが決まった。



……繰り返される無駄な日常のゴールは、どこにあるんだろう。



あのボールのように自由に軽やかに舞うことができたなら、見つかるんだろうか。







授業終わり。
タオルで汗を拭いながら窓から外を覗くと、天気予報の通り、雨は少し強くなっていた。

「平手」

ふいに体育教師に呼ばれ、後ろを振り向く。

「バスケ部に入る気は本当にないのか」

……まただ。

入学してすぐの自己紹介でバスケが好きだと話してから、教師や先輩から頻繁にバスケ部への誘いが来るようになった。

バスケは好きだけれど、部活動という集団に所属するのは嫌だった。

「小学生のときからやってるんだろう? 実力があるのにもったいないじゃないか」

「趣味でやってるだけなので」

「皆とのチームワークを磨けばもっと上手くーー大会もーーのにーー」

うるさい。

どうして群れに混じらないといけない?

どうして自分の意思なのに、周りにどうこう言われなければいけない?

「どっちにしても部活動への入部は絶対だ。一年生でまだ入部していないのはお前だけだぞ。とりあえず体験入部だけでもしなさい 」

でも一番嫌なのは……

「……わかりました」

意思を貫けない、自分の弱さだ。










放課後になると雨は滝のようになっていて、叩きつけるような轟音が天井から響いていた。

雨が少し落ち着くまで待っていよう、と教室や廊下に集まっているクラスメイトたちの横を通り過ぎ、昇降口まで駆け、傘を差して勢いよく校舎を飛び出した。

雨は勢いを保ったまま降り注ぐ。

おまけに吹いてきた風のせいで傘の意味がないくらい全身がびっしょりになって、私は家への道を急いだ。

休みの日によくバスケをしに来る公園の前に差し掛かると、地面は案の定一面が水溜まりになっていた。

今週末はバスケはできそうにないな、と小さくため息をついて通り過ぎようとしたとき、視界の隅で何かが引っかかった。

もう一度公園内に目をやる。

バスケットゴールのすぐ隣の木の下ーー叩きつけるような強い雨の中、傘も差さずにたたずんでいる一人の姿があった。

いつもなら他人になんて興味がない。

でもすぐに通り過ぎることができなかったのは、その人が着ていた制服が、同じ中学のものだったから。

それだけじゃない。
彼女の醸し出している儚げな雰囲気が、心に染み付いて離れなかった。

水溜まりを避けながら公園内に一歩、二歩と足を踏み入れていく。

近くまで行っても、深くうつむいているその顔を確かめることはできなかった。

「あの、大丈夫ですか?」

緊張を飲み込み絞り出した声は雨の音にかき消された。



こっちを向いてほしい。

こんなところで一人、雨に打たれている理由を教えてほしい。

どうしてこんなに、この人が気になるんだろう。



もう一度声をかけようと開いた口。

でも声を出す前に彼女は歩きだし、その背中は反対側の公園の出口に進んでいき、その先の住宅街の中に消えてしまった。

一人になった途端に、思い出したかのように雨の音が耳に響いてくる。

私は水溜まりを避けるのも忘れ、彼女の残像を追うようにゆっくりと歩き出した。










翌週。
いつも以上に重い足取りで学校に向かう。

今日は、放課後にバスケ部の体験入部に参加しなければいけない日だった。

ずぶ濡れになったあの雨の日に熱でも出せば、学校を休めただろうか。

いや、それじゃ一時的にしか逃げられない。

怪我をすればーーいや、それじゃバスケ自体ができなくなる。

登校拒否……は事が大きくなる。

周りに聞こえないようにため息を吐き、唇を噛み締める。

……臆病な私は、いつもこうやって思考を巡らせるだけで、結局何もできない。



午前中の授業は全く頭に入らず、あっという間に昼休みになった。

どこで時間を潰そうかと考えながら廊下に出ようと教室のドアを開けたとき、廊下から会話が聞こえてきた。

「あいつ、三時限目までは授業に参加していたんですよ」

「また帰ったんじゃないですか?……あの子の親も無関心だから、かわいそうと言えばかわいそうですけどね」

「うーん、一応校内を探してみるか……全く」

「私も彼女を見かけた生徒がいないか、ちょっとあたってみます」

「よろしくお願いします、先生」

その声は確か、三年生のクラスを受け持っている二人の教師だ。

生徒が誰かいなくなったんだろうか、慌ただしげなその声はすぐに遠ざかっていった。

誰にも見つからずにこっそりいなくなる……か。

私は教室を出て、誰とも目を合わさずに足早に階段に向かって歩き出した。









眩い陽の光に目を細める。

立入禁止になっているだろうとダメ元で掴んだドアノブはあっさりと回り、初めて屋上に足を踏み入れた。

外の空気を吸えるこの場所なら、校内の閉塞感が少しは紛れる。

食欲が湧かなくて途中の自販機で買った紙パックのジュースをポケットから取り出しストローを差した。

弱く吹いている風が心地いい。

昼休みが終わるのがいつも以上に名残惜しくなる。

フェンスの前まで行ってぼーっと景色を眺めていたときだった。


ふいに背中からザッ、と音がして、誰かが来たのだとすぐにわかった。

屋上に向かうところを教師に見られてた……?

真っ白になった頭のまま、ゆっくりと振り返った。

「……何だ。担任かと思った」

「え……?」

でもそこにいたのは教師ではなく、同じ制服を着た女子生徒だった。

同級生の中にはいなかったから、多分二年生か三年生の先輩だ。

そう思ったとき、壁に付いている校内放送のスピーカーからブツン、と荒々しい音がした。

『えー、三年A組の渡邉理佐さん。昼休み終了後、職員室に来なさい。繰り返します、三年A組の渡邉理佐さんーー』

ーー渡邉理佐。

その名前に緊張が走る。

目線の先にいるその人が小さく舌打ちをして、私は悟った。


この人が、渡邉理佐……。


でも見た感じでは「関わらない方がいい」と噂されるほどの人には思えなかった。

むしろ、自ら周りを遠ざけているという方がしっくり来るような気がする。

どうしてーー以前どこかで抱いたような気がする感情が、再び芽生える。


どうしてこんなに、この人が気になるんだろう。




「……あのっ」

ドアに向かって歩き出した彼女の背中に、私は声をかけた。

冷たい眼差しを向けられて口ごもりそうになったのをぐっとこらえる。

「どうして、ここに一人でいたんですか?」

「……」

「人が、嫌いなんですか?」

答えは返って来なかった。

ただ冷たい目が、すうっと虚ろなものに変わった。

長い沈黙の中、突然鳴り響いた予鈴にびくりと身体が跳ね、その勢いで後ずさる。

「あっ、いえ、何でもないです! ごめんなさい、もうすぐ授業が始まるのでっ」

「……あんた、真面目に授業受けてんの?」

先に立ち去ろうとしたとき、予期せずかけられた声。

「え? だって受けないと後で面倒だし……」

ちら、と顔を覗き見たら、その口から大きなため息が漏れた。

「チャイムの音に縛られて皆で教室の席に座って、同じ教科書を読んで、同じことを板書して……それってバカみたいじゃない?」

どうせ無駄なことなのに、と吐き捨てるような口調。

「操り人形だよ、そんなの」

「……!」

どうしてこの人が気になったのか……

それは、この人も同じ考えだからだ。

周りに同調するのが嫌で、自ら一人を選んでいる。

でも、私よりも遥かに強い……"孤高"だ。









夏休みに入って、夕方にバスケをやりに公園に出かけたらベンチに見覚えのある姿を見つけた。

気持ちが舞い上がる。

屋上で話をしたあの日からずっと、また会いたいと思っていた。

あれから自分の中で迷いがなくなって、バスケ部の勧誘もきっぱりと断った。

周りに何を言われても自分を貫こうと決めた。

先輩のような"孤高"に少し近付けたような気がした。


ベンチまで歩いていって声をかける。

「こんにちは。えっと……理佐、先輩」

恐る恐る名前を呼んでみたけれど、先輩は嫌な顔ひとつせずに私を見てくれた。

「ああ、屋上にいた」

「平手友梨奈って言います。友梨奈って呼んで下さい」

「……友梨奈」

書いてある文字をそのまま読んだような抑揚のない声だったけれど、それでも嬉しかった。

「ここで何かしてたんですか?」

「……話してた。さっきまで」

「誰かといたんですね。友だちですか?……あ」

聞いてからすぐ、しつこいと思われるんじゃないかと不安になって「ごめんなさい」と付け加える。

「友だちじゃないよ」

返ってきたのは珍しく、高めの声だった。

「じゃあ、そろそろ私は行くから」

ベンチから立ち上がりそう言った先輩は去り際、なぜか少しだけ頬を弛ませているように見えた。






それから何度か廊下で理佐先輩を見かけることがあって、その隣にはいつも決まって同じ人がいた。

それを見て少し胸が締め付けられたけれど、その人といるときの先輩はいつも幸せそうに笑っていたから、何だか嬉しかった。

きっと、すごく大好きな人なんだろうな。



……まさかその笑顔を二度と見られなくなるなんて、そのときは想像もしていなかった。





ある日の休み時間、校内の人気のないところで理佐先輩が誰かと電話しているのを偶然見かけた。

電話の相手の声は低くて、何だか嫌な感じがした。

理佐先輩が動揺した様子で口を開いた。

「待って、お父さんっ……それだけは……!」

返ってきたのは怒鳴り声。

『教えたことを忘れたのか?何回も言わせるな!!』

びくりと身体を震わせた先輩。

その雰囲気は明らかに普通ではなかった。

『わかったら今日中に片付けろ』

電話が切れる寸前の相手の声が、一際耳に残った。

『お前に愛は必要ない。ただ俺たちの理想通りに育てばいいんだ』

電話を耳から離した理佐先輩の腕がだらんと力なく垂れる。

私は聞いてはいけないことを聞いてしまったような気がして、急いでその場を立ち去った。



放課後、私はまっすぐ家に帰らずに公園に向かった。

なぜかはわからないけれど、直感的に"行かなきゃいけない"と思った。

入口に差し掛かったところで夕焼けの眩しさに目を細めたそのときだった。

公園内で、誰かが走り去っていくのが見えた。

目が眩しさに慣れてくると、その背中を見つめながら立ち尽くすもう一人の姿に気付いた。

「理佐先輩……?」

遠ざかっていく、肩につくくらいのショートカットのその人はいつも理佐先輩の隣にいた人に似ていて、そう思った次の瞬間、先輩の身体が地面に崩れ落ちた。

慌てて駆け寄る。

「せん、ぱい……?」

「待って。お願い。嫌だ。離れたくない。行かないで。本当は私は……。ごめん、ごめんねっ……」

何度もごめん、ごめん、と謝る理佐先輩はすごく苦しそうで、私はどうすればいいかわからなくて、震える両手を伸ばし、目の前の身体を抱き締めた。

大好きなはずのあの人に別れを告げたんだ、と悟った。

どうして……?

ついこの間まで、あんなに幸せそうに笑っていたのに。

あの笑顔が刹那の夢だったかのように思えてしまう。



腕の中から抑揚のない声がぽつりと聞こえた。

「……私は、操り人形、だから……」

「何ですか、それ……」

「だから、感情なんて、持っちゃいけないの」

「おかしいですよ、そんなの!」

操り人形になるのはバカみたいだって……そう言ったのは理佐先輩なのに。

私に、自分を貫く勇気をくれたのは、あなたなのに。



この人を、
この人の心を、支えたいーー。



「……私じゃ、先輩の役には立てませんか?」

夕陽はいつの間にか沈んでいて、辺りは薄暗くなっていた。

どちらからともなく合わさった眼差し。

顎をクイと持ち上げられて、近付いてきた理佐先輩の顔。

誰かと唇を重ねるのは生まれて初めてだったけれど、この人となら構わない、そう思った。

実際はほんの少しだったのかもしれないけれど、頭の中では永遠のように思えたその時間。

呼吸の仕方がわからなくて口から何度も漏れた短い声。

しょっぱいものが唇から舌に伝う。

目を開けると、理佐先輩は泣いていた。

うっすらと目を開けた先輩がぱっと唇を離し、顔を逸らす。

そのときに先輩の横顔を見て、私は初めて気付いたんだ。


あの雨の日に立ち尽くしていたのが、理佐先輩だったことに。









その日を最後に理佐先輩と会うことはないまま三年生は卒業した。

私は理佐先輩を追いかけ、同じ高校に入学した。

久し振りに会った先輩が名前を呼んでくれたときはすごく嬉しかった。

けれど先輩は記憶を失っていて、私との思い出も忘れてしまっていた。

でもその方が先輩は苦しまなくて済むんじゃないか、幸せなんじゃないかって……。

だから、今度こそ先輩を支えよう。
そう決めたんだ。

胸の中に、想いを秘めながら。



To be continued…