「What is I ?」
という話があります
文法的に間違ってるのではなくて
「What am I ?」ではなくて
「What is I ?」
「私とは誰か」ではなくて
「私とは何か」ってことですね
ここんとこ色々ありまして
自分自身について改めていろいろ考えていて
看護学校のときの
社会学の授業をふと思い出していました
社会学を講義してくださったY先生は
ある日の授業で
「愛する、ということには理由がない」
とおっしゃいました
それを聞いて当時の僕は
「あぁ、パスカルだな」
と瞬時に思ったわけなんですけど
「理由がない」とはどういうことかといいますと
たとえば今付き合ってる恋人がいて
「その人の、こういうところが好き」
「こういう部分に惹かれた」
ということだけになってしまうと
もし、それが無くなってしまったり
そんな部分が変わってしまったと同時に、
その恋人のことを好きではなくなる
愛せなくなってしまう
ということになってしまうからです
だから
まぁ「愛」ということで
一番わかりやすいのは
家族とか、子どもとか
そう考えると考えやすいのだと思うのですけど
子どもだって
いいところと悪いところがあるわけですが
そのいいところが全部なくなったから
もう愛せない、育てられない
っていうことにはならないわけですよね
そういうことを
Y先生はおっしゃっていました
実はこれは
数学者であり、
哲学者であり、
物理学者であり、
神学者でもあった、
あのパスカルさんが400年くらい前にはもう
「パンセ」で主張していたことで
こんなことを言ってるんですね
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「私」とは何だろう
一人の男が通行人を見るために窓に向かう
もし私がそこを通りかかったならば、
彼が私を見るために そこに向かったといえるだろうか
いや、言えない
なぜなら、
彼は特に私について考えているのではないからである
誰かその美しさのゆえに愛している者は、
その人を愛しているのだろうか
いや、言えない
なぜなら、
その人を殺さずにその美しさを殺すであろう天然痘は、
彼がもはやその人を愛さないようにするだろうからである
そして
もし人が私の判断、
私の記憶のゆえに
私を愛しているなら、
その人はこの「私」を愛している のだろうか
いや、そうではない
なぜなら、
私はこれらの性質を、私自身を失わないでも、
失いうるからである
このように
身体のなかにも、
魂のなかにもないとするなら、
この「私」というものはいったいどこにあるのだろう
滅びうるものである以上、
「私」そのものを作っているのではない,
これらの性質のためではなしに
いったい どうやって身体や魂を愛することができるのだろう
なぜなら人は、
ある人の魂の実体を、
そのなかに どんな性質があろうともかまわずに、
抽象的に愛するだろうか
そんなことはできないし
また正しくもない からである
だから人は、
決して人そのものを愛するのではなく
その性質だけを愛しているのである
したがって公職や役目のゆえに尊敬される人たちを、
あざけるべきではない
なぜなら人は、
だれもその借り物の性質ゆえにしか愛さないからである
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これ以上のことは書かれてませんが
この先が非常に大事でして
本当はパスカルは
「そんなの、虚しいよ」
「虚しすぎるよ」と言いたいのです、ほんとは
ある人には話したのですが
Y先生の話の内容、講義の内容は
何一つ“オリジナル”なものがなくて
それこそ全部「借り物」なのですが
なんであんなにおもしろいかというと
印象に残ったのかというと
それらを自分のものとしているからです
自らの過酷で濃厚な、
自分の人生経験と引き換えに
そういう人こそ
すごく勘が鋭いのです
たとえば腰を痛めると
立ち上がるという動作ってものが
ものすごく身に染みてよくわかるでしょう
どんなに立ち上がる時に
腰をつかっているのか、っていうことが
それと同じことで
痛みのある人はすごい鋭敏にわかるのです
たしかボブ・ディランも言ってたはずです
「本当に深い優しさをもった人は
心に深い痛みを経験した人だ」と