京都での5日目最終日
宿を出て、夕方大阪に戻るまでの時間をどこで過ごすか考えてたら
ふっと三十三間堂がいいかなーと思いついたので、
西陣からバスに乗って七条の方まで向かった。
何度か利用したけど京都のバスは大抵混んでいて、
ギターと旅行バッグとバックパックを担いで
満員バスに乗り込むのも結構窮屈になる。
なので出町柳というところで京阪の電車に乗り換えようと
したのだけど、その一つ前のバス停から鴨川と桜の景色が
見えたところでバスを降りたくなって、降車し
川沿いの桜を求めて歩いた。
川沿いはピクニックをしてる人たちやランニング、散歩なんか
してる人たちで賑わっていて、この晴天の空を満喫しているよう。
京都の桜ももう散り始め。
旅の終わりの見納めかなと鴨川の桜を眺めてた。
そしてここから下鴨神社は歩ける距離だなーと思い立ち
下鴨神社に立ち寄ろうと決めた。
ここは何度か来たことがあって、思い出の残る場所。
なので歩いてるとかつての様子が思い浮かんできた。
参道を入ってすぐ左手を曲がってゆくと河合神社という摂社があったので
そこからお参りを始めた。
ここは玉依姫命が祀られていて女性の守護、美麗の御神徳があることで
知られている。
またここは随筆の鴨長明が幼少の頃過ごしたらしく、
彼の晩年の庵を復元したものが置かれていた。
参道に戻ってまっすぐ歩いてゆくと神社の楼門にたどり着く
人の多い本殿をお参りしたあと、小川の向こう側にある
御手洗社の方に向かった。
ここは瀬織津姫が祀られているところで、小さな拝殿には
水が流れている。
そこは土用の丑の日、川の水に足をつけて無病息災のお祓いを行う
行事が行われている。
おれは以前ここに来たことを思い出しながら、
川縁の段に座って水の音と正面に見える
桜の花が風に吹かれて散ってゆく様を眺めていた。
桜の散ってゆく侘びしさとこれから新緑を迎える
始まりの喜びの交差する思いが小川に流れてゆく。
戻る途中の古馬場の道
下鴨神社をあとにし、出町柳駅から七条駅まで京阪電車に乗る。
そこから徒歩で三十三間堂に行く。
なんとなくここの千手観音様を観たかった。
千体もの千手観音立像と大きな観音菩薩の坐像の前に
自分の内側の苦しみやそれに伴うカルマを
流したかったのかもしれない。
それは時折おそってくる無力感や絶望感という
自分の真実とは相反する思考から流れてくるエネルギー。
それが自分の内側に不安や恐れという感情を生じさせることは
一人になってこのかたずっと続いてきた。
そうした思考の幻想におちいる度に
ヒーリングや自然との調和を取り戻すことで
なんども自分の中心を取り戻しては、その深い闇から解放され、
幾度となくミラクルのような人との出会いがあったり、
宇宙の深淵の叡智と繋がっては光明が広がり、
自分を前に向かわせるサポートを受けては
自分軸や自分の本質というものを見出してきた。
諦める、というのは手放すということと似ていて、
自分の力ではどうにもならない状況や、境遇に対して
それを自分の力でなんとかしようとする
コントロールを手放すこと。
だから諦めるというのは自分の光り輝きを放つ魂の喜びを
諦めるということではなく、
それをコントロールしようとする執着やこだわりや思い込みを
手放すというもので、そうした時に流れに委ねる、宇宙に委ねる、
ということがどういうことなのかが理解できるのだと思う。
千体もの千手観音を見ながらゆっくり歩いていると、
護摩木があったので、その時思い浮かんだ祈願の言葉を書いた。
『安心立命成就』
安心立命はレイキの創始者・臼井甕男氏が唱えたものとして知られていて、
意味としては、
”人力を尽くしてその身を天命に任せ、どんな場合にも落ち着いていること。”
ということになる。
自分がレイキマスターだから、ということで言ってるのではないけど、
最近とくにこの言葉の意味の大事さを感じてる。
人として生きるということは、楽もあれば苦もあるのが常、
そんな陰陽の波の中にあって自分軸を保ち内側の安心の場にいれますように。
そんな祈願をこの千手観音像の面々の前でしました。
あいにく国宝の千手観音像は写真はNGだったので、その姿は
紹介できないけれど。
なので三十三間堂のリンク貼っておきます。
みなさんも京都にお越しの際はここを訪れて、護摩木に祈願して、
何かしらの手放しをするのもいいですよ✨
ここで浮かんだ想いをシェアします。
人は長生きすることが魂の喜びではないよ、、、
だって、80年の寿命が100年まで生きたとて、
壮大で広大な宇宙の広がりに対してどれだけ意味のあることなの?
偉いの?
成虫になったホタルやセミはほんの1、2週間だけ輝いたり、
生の悦びに叫んでるんだよ。
桜の花も一年にこの春の2週間くらいの期間だけ、
その輝きと悦びを世界に捧げてる。
でもその短い生涯を一生懸命に今を生きる
情熱に注げている生命に尊さを感じる。
生と死は表裏一体にあるから、生きてることが
悦びだと感謝できるものじゃない?
死を恐れて、死なないように生かされても
それは闇に目を背けて平和だと思い込まされてる
生きた屍みたいなもので、、
おれはいつ死んでもいいと覚悟はできてるつもりだけど、
ただその死を迎えるまで、太陽が輝いてるように
自分の魂を輝かすことをやり続けるだけだな〜。
だよね、お地蔵さん
なんか三十三間堂のところに来て色々語ってしまったけど、
京都の旅も最終回となりました。
お付き合いしていただきありがとうございます🙏
最後を飾るエンディングソング聴いてください。
白川の辺り、桜の下で演奏した曲
花〜春のうららの隅田川