(積乱雲と旅客機・・・こういう写真撮るの好きなんです)
9月20日が空の日です。
羽田空港では9月29日に空の日フェスティバルが行われる予定とのこと。
う~ん。そういえば昔はよく飛行機写真を撮りに羽田に行ったものです。
もともと飛行機が好きなもんですから・・・笑
晴れたら久しぶりに飛行機写真撮りに行ってみようかな。
↓って、もう撮ってるじゃん。
羽田34L,Rに降りるANA機。手前の機(上機)が奥(下機)のを追い越してきたところ。
平和ですね~~。
その昔、日本が太平洋戦争での終焉まじかの1945年夏。
アメリカ軍の重爆撃機B29襲来を阻止するべく、海軍航空技術廠は新型戦闘機の開発を進め、今までの戦闘機にはないタイプの局地戦闘機を作った。J7W1・・・震電。
それまでの局地戦闘機「雷電」はゼロ戦の生みの親、堀越次郎氏が対要撃用に製作した機体で、20ミリ機関砲4門も武装をほどこし、8,000 m まで9分45秒の上昇力を持っていたが、三菱で470機余りが製造されただけで技術的な問題が多く、始終エンジントラブルなどに見舞われていた。
このため根本的な対応として、機体設計からやり直し、時速750キロと高度12000メートル飛行可能を目標に製作されたのが「震電」である。
(↑震電1/72スケールモデル・・・モノクロ化してます)
しかし、やはり当時の日本にはドイツのような精巧な工業力も鉄鋼資源・生産力もなく、航空機のような精密機器を大量生産するにはいささかお粗末な状況だった。
トラブル続きでの8月8日、試験飛行3回目でエンジンの不調改善を製作所と掛け合っていたところで、15日の終戦を迎えてしまう。
30ミリ機関砲4門という重武装で、最終的にはジェットエンジン化させると言う構想もあったようだ。
試作機の状態で終戦を迎えたため、雷電のように実践参加することがないため12000メートルの飛行データなどもない。
(↑↓左・震電、右・雷電。ずんぐりむっくりの雷電に比べスマートな震電)
従来の飛行機と比べ、主翼を後ろに持っていくことで機体前方に火力を集中させることができるなどのメリットもあったが、離陸時に巻き上げた小石や砂を巻き込まないようにする必要があったり、緊急脱出時にプロペラに当たらないようにしなければならない、など今までにない対策も必要であったようだ。
この機体の開発がもっと早かったら戦局が変わっていたかもしれない・・・という話もある。
戦勝国のアメリカがこれらの機体を研究したあと、日本に10年間の航空機開発を禁じたことから、資材と人材の不足であったにもかかわらず優秀な機体製作に取り組んでいた実情がうかがえるだろう。