1985年の今日。

その事故は起こった。

 

あの日、自分はいつものように鎌倉の稲村ケ崎でのんびりと夕方の海風に吹かれながら月と旅客機をみていた。

当時、変なもので、夕風に吹かれながら飛んでいく旅客機を見るのが好きだった。(もちろん写真も撮っていた)

遠く伊豆半島に夕日が沈むころにもう写真は撮れない(あのころはアナログカメラで、フィルム感度も今のように良いものではない)ので、帰途についたのが6時前だったように思う。

(写真は事故と関係ありません)

帰ってから、ジャンボが行方不明になってる、とニュースがされていた。

あんなデカイものが行方不明になる?

レーダーに映らないほどの低空飛行しているなら、すぐに住民からの情報が入るはずだ。

どこかの山影に落ちたか、海に落ちたか・・・。

不謹慎ながらすぐにそう思った。

乗客乗員520名余りの満席だったと。

 それからしばらくして、相模湾で鶴のマークの入った尾翼が見つかり、目撃者の証言から検証されたのは何らかの理由で垂直尾翼がなくなってしまったのではないかというものである。

 落ちてしまっていると思うことの不謹慎よりひどいのが、「自衛隊がミサイルで落とした」というものだ。

 そう信じてる人が今でもいないわけではないようだ。

 撃墜してしまった証拠を見られたくないので、御巣鷹の尾根に落ちているのを発見したとき米軍の救助支援を断ったのだ・・・と。

 少し前の1971年のこれも夏に、岩手県の雫石上空で、航空自衛隊のF86戦闘機とANAの727旅客機が空中衝突し、旅客機側の乗客乗員全員が亡くなっていたが、自衛隊機の乗員はパラシュートで脱出し助かったというものだ。(この乗員はその後、戦闘機乗りをやめ人命救助の任務に就いた)

 こうした事故のせいか、自衛隊撃墜説がまことしやかに語られるわけだが、自分はやはり、大阪空港尻もち事故の修理ミスによる破損・故障だとおもう。

 その時直ってればよし、とする考え方だったのかは分からない。変形した部品を適当につなぎ合わせてしまった・・・。

 つないだ部分が薄くて、そこから破断。当時流行した「金属疲労」である。

 今でもネットで、この時の(羽田)管制塔との交信と機内のアナウンスなどが収録された音声を聞くことができる。

 午後6時24分ごろ、高度7000メートル付近で「バーン」という音とともに、機長の「何か爆発したぞ」から始まり、操縦室があわただしくなる様子がうかがえる。

 

 刻々と迫る状況に機長たちが決断を迫られていく。

 旅客室内では高度警告音が鳴り響く中、アテンダントが必死で乗客に「酸素マスクの着用を」呼び掛けている。

 あれ?コクピットクルーは酸素マスクしないの?なんで緊急降下しないの??

 音声からも、マスクを着用した感じがない。28分14秒に機関士(当時3名常務だった)が「降りましょう」というまで、そのまま飛び続けていたことになる。操縦不能と気がつくのはこの後だ。

 これ、もしかしたら無酸素状態になっていたのでは?実際しばらく、クルーの会話が途切れている。

 

それからコントロールを失ったジャンボ機操縦を立て直そうとするクルーたち。

 29分の「もってないか聞いてみます」・・・は、油圧が下がったことに気付いた航空機関士がアテンダントに聞いたのは、後方のドア付近が破損との情報に「修理用品等」を持っていないか?ということではなく、「”オイルが室内に”漏っていないか?」ということである。

オールロスするくらいのオイル抜けなら、おそらく機内に漏れ出ていると思ったのだ。

 

 その少し前、28分、羽田空港への引き返しを要求したクルーは大島レーダーの誘導を試みて、なぜか右旋回をしている。

 これは機長が右座席に着席し、機長昇格訓練中だった副操縦士が左席だったことで、機長が外の様子を見やすかった右旋回をしたというものだが、クルーの会話からはほぼ副操縦士に操縦させていたように思えるのだが…。

 これは航空機の緊急回避ルートは、人を巻き込まないように海側を飛行するルールに反する。

 ※これは今でも海山論争のもとになっているようだ。

 それと羽田は三浦半島側からのコースにしないとC滑走路には降りにくい。

 万一、東京タワー側(東京側)のコースで墜落したら、場所によって都民数百人以上が巻き添えになるのだ。

 海に落とすとひっくり返ってバラバラになってしまう・・・という意見もある。

 いや、海だろうが山だろうが、落ちたらバラバラになるのはどちらも同じと思うのだが。

 だから海に落ちた(落とす)時のために、救命胴衣置いてあって、使い方を説明してるのでは??

 ひねくれた言い方をすれば、町や山に落ちる場合もあるから、落下傘も積んでますってエアラインないでしょ。

 

 タラレバなのでどうしようもない話だが・・・。

 123便はコクピットクルーの必死の操作で、本来ならすぐに墜落してしまうのを30分以上も飛び続けていた。

 なんとか無事に戻したい、という機長たちの執念がすごい。

 でも乗客にとってそれがいいことだったのか・・・死の恐怖を30分以上味わされることの辛さは自分にはわからない。

 富士山を回って山梨、神奈川、埼玉・・・と南風に流されてどんどん内陸へ向かって飛んでしまう。

 おそらく墜落のその時まで、クルーたちや乗客乗員は垂直尾翼が飛んで、油圧が全部抜けたことが原因だとは思っていなかっただろう。

 

 8月12日。この日が来ると思いだす。

 

 飛行機は自動車より安全な乗り物だという。

 しかし一度トラブルに見舞われると、その死亡率は自動車事故のそれと比較にならない。

 

 この事故の遺族たちに、少しでも心の安らぎがあることを願ってやまない。

 今日も空の安全が保たれますように・・・。