先の戦争の中で(19449月15日)にはじまったパラオ諸島のペリリュー島の攻防戦はそれまでの島の攻略とは違う、たぐいまれなる激戦地になったことで有名です。

 フィリピン奪回を目指すアメリカ陸軍のマッカーサーにとって、この進路上の小さな島も目障りな存在だったようです。そこで海軍の戦略として、このペリュリューが選ばれたわけです。

 十字型の飛行場を持つこの島は、当時、現地住民もおりましたが、そろそろ戦場になる、とわかった段階でこれらの現地住民を、逃がしておくわけです。

 そういったことも、のちの親日家の感情になったものとおもいます。

 ガダルカナル島の奪回に失敗した旧日本軍は、サイパン、グアム、テニアンの防衛戦のように水際での戦いを避けて、上陸してくるアメリカ軍には砂浜に地雷等を埋め込み、それを突破してきた敵を、隆起サンゴをくりぬいて作った洞窟陣地を数百も作って待ち伏せして戦いました。

 その戦い方はのちの硫黄島防衛、沖縄防衛に引き継がれていきます。

 ペリリューにはアメリカ軍は当時最強と言われた第一海兵師団を送り込み、3日もあれば攻略できると高をくくって上陸しましたが、それは下記による戦力差が言わせたことなのでしょう。

旧日本軍、陸軍第14師団戦車隊含む総勢1万500名。海軍3000名。

火砲200門、戦車17両。

対して米軍は4万8000名強。火砲720門以上、戦車117両。戦艦、巡洋艦5隻づつ等の海上支援付き。

 しかし、白兵戦での戦いに米軍は武器もなくなり、手榴弾の代わりに石まで投げて応戦すると言う事態に陥り、第1海兵師団は死傷率71%にまでになり、陸軍と交代せざるをえないほどになってしまったようです。

 この戦いで、日本の戦車部隊も九五式軽戦車などが出撃しましたが、所詮日本の戦車はアメリカのそれと比べたら、ロールスロイツと軽自動車を比べるようなもので、バズーカ砲やM4シャーマン戦車にたちどころに撃破されて全滅の憂き目にあってしまいました。

 おおよそアメリカ軍の1/6の戦力で終戦のあとも洞窟陣地に隠れ、山口少尉の元、ゲリラ戦で戦い続け、1947年4月22日まで戦ったと記録されています。ものすごい精神力です。自分には絶対できません。

 日本軍守備隊隊長中川州男大佐のご遺体は現地に手厚く埋葬されたとのこと。

 しかし、まだ多くの将兵の遺骨収集もされず、そのままのようです。

 安らかに眠っていてほしいと思います。

 国の方針を司る方々の「なんとかなる」という甘い考えで起こした戦争ですが、このような、現地で懸命に闘われた方々には頭が下がる思いです。彼らが居てこそ、今の日本があるように思えてなりません。

 ペリリュー島はもともと第一次世界大戦でドイツに代わって日本が国連から委任統治を受けた島でした。今は穏やかな南国の国として観光でにぎわうところですが、戦前、日本がライフライン、教育などにとても力を入れた名残があって、親日的であり日本語も通じる国です。

 もっと日本としてもペリリューの発展に支援してあげてほしいと思います。

 

 

 模型はフジミ製1/76 九七式軽戦車(チハ)改、M4シャーマン戦車でペリリュー島の戦いを作ってみました。