教会の人間関係〈バウンダリー〉 | とりあえず今日を生き 明日もまた今日を生きよう

とりあえず今日を生き 明日もまた今日を生きよう

山の麓で 英語塾をしています。週末は東の都 東京のおうちで過ごし とりあえず今日を 明日もまた今日を生きようと ゆるりゆるりをモットーに過ごしています。


よく教会の人間関係が原因で
教会を離れる人が多いと聞くが


カトリックにいき始めてから
思ったのだが


プロテスタントの教会に
限って言えば


プロテスタントの教会は
よくも悪くも
人間関係が濃い


いや濃すぎるのが
原因なのではないかと思う

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カトリックでも
小さい教会にいけば
そのような濃い人間関係の教会も
あるかもしれないが


たいていは皆な
ミサが終われば
さっさと帰ってしまうので


馴れ合った濃い人間関係は
生まれにくいように思う


つまりそれは


苦手な人とは
さりげなく
関わらないでいられるし


個人的領域にも
入ってこられにくく
プライバシーも保たれ


人間関係において
距離をとりやすくなる


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そもそも


近すぎた濃い人間関係など


誰かれ構わずもてば良い
というものでもないだろうし
その必要もないだろう


現実的には
限られた人としか
深い人間関係など
結ぶことができないし


濃い人間関係が
真に心分かち合った
深い人間関係なのかと言えば
それは全く違う


だからこそ


深い人間関係を
もてた人との希少な関係性に
尊さを感じ


その人との関係を大切にしていこう
という気持ちが生まれるのては
ないだろうか


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クリスチャンは


クリスチャン同士を
主にある兄弟姉妹と呼び合い


神のもとにあって
“家族“と口にするが


もとをだだせば
他人である


時にそれを忘れて


馴れ合いのもとに
相手の領域に踏み込みすぎ


本来なら
尊重されるべき
境界線〈バウンダリー〉
を犯しあってはいないだろうか


良い人間関係というのは
互いの境界線〈バウンダリー〉が
保ててこそ築けるものだ


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主にある兄弟姉妹


しかし
もとをだだせば他人


それを
肝に命じつつ


その他者に対し
適切な距離を保ち


境界線〈バウンダリー〉
を意識しつつ


どんなに
近しい間柄になっても


主にある兄弟姉妹と
呼び合える近しい間柄だからこそ


礼節を
忘れずにいたいものだと思う