今日




の典礼が行われました
典礼の中で




額に灰を
うけられていらっしゃいました
額に灰を受けるのは
キリストと出会って
始められた


真心から立ち返る回心と
人間は
神につくられた塵にすぎない
はかない存在であること自覚し


覚えるためだそうです
「ちりに帰って知ること」
わたしのよく知っているご主人は
80代を迎えるとともに
生活がままならなくなりました
奥様はそれまでと同じように
喜んでこまやかにお世話を
続けていらっしゃいました
しかし
ある時からご主人は
朝になると鞄をかかえて
パジャマのまま靴を履き
とても急いで
駅のほうへ
向かうようになりました
ご主人が現役時代
毎日通勤の為向かった
駅への道です
奥様が止めても
どうしてもそうすると言って
きかないのです
奥様は一緒に
駅まで急ぎ足で歩き
駅に着くと家に戻る
という日々が
一ヶ月くらい続きました
ある朝
歩きながらご主人が
言ったそうです
「俺が会社にいかないと
女房や子供が困るんだよ、
姉さん!」
毎日一緒に
歩いてくれている奥様を
姉さんだと
思い込んでいたのです
奥様は
おっしゃいました
「愛してるとか 大切だとか
言ってもらったことは
一度もありません
でも どんな気持ちで
何を思って
毎日駅に向かっていたのか
壊れてしまった夫と
同じ道を歩いてわかりました
ちりになって
はじめて知ることって
あるんですね」





人はよく
人間は歳をとると
赤ちゃんに
帰っていくと語ります
このご主人は
人の目には
赤ちゃんや幼児のように
映るかもしれません
しかし
赤ちゃんには
この方が秘めていらっしゃる
ただひたすら
愛する人の為に
自分自身を
捧げようとする内面は
まだ育ってないのです
人は
自分自身でも
気づかぬままに
一生かかって
この種を育て
その実りをたずさえて
高齢へと歳を重ねます
確かに私たちは
地のちりからとられ
ちりへと帰っていくのですが
取られる時のちりと
地へ帰っていく時のちりは
同じではないようです
後者は
‘’土の器‘’なのです





人はみな
ちりとしてのはかなさを
身に受けています
でも
人の思いを
はるかに超えた神は
そのはかない
‘’土の器‘’の中で
思いのままに
働いていらっしゃいます
このことを忘れないで
心に刻みたいと思います