ある福音派の教会(聖書根本主義)
のホームページを
覗いていたら
Q&Aという項目に
カトリックと
プロテスタントの
違いについて
書かれている箇所があり
興味深く読ませて頂いた
それによれば





簡単に書けば
プロテスタントは
『聖書のみ』なのに対し
カトリックは
『聖書も』であり
カトリックの教えは
聖書だけではなく
使徒以降の教皇
司祭たちによる伝承 言い伝え
教会会議の決定
聖書以外の外典に
聖書と同等の価値を
持たせている
殉教した司祭を
聖なる者とすること
イエスの母マリアの神格化
教皇の神格化
錬獄の教え
免罪符
(お金をだして罪を赦してもらうこと)
など聖書に書かれてないことが
教えられている
それにルターが異をとなえ
プロテスタントが始まった





これを読みながら
この文章は
この教会の牧師先生が
書いたものだろうか?
っとふと疑問に思った
もしそうならば
この牧師先生は
カトリックについて
お勉強不足ということになる
いや
お勉強不足では
すまなされない
大変間違ったことを
お書きになっている
少しカトリックのことを
勉強し始めたばかりの
平信徒にさえわかる
間違えをなさっている
カトリックの歴史の中で
カトリック教会が
一度たりとも
『免罪符』
(それを買えば罪が赦されるお礼)
などというものを
発行した歴史的事実はない
『免罪符』
というのは
大きな間違いで
カトリックが発行したのは
『免償符』
(それを買えば
自分の犯した罪に対する
償いが軽減されるお礼)
である
このことは
ルターもわかっていたから
『95ヶ条の論題』
を書いたのである
詳しい説明は
長くなるので省くが
わたしも
カトリックのお講座で
勉強し始める前は
『免罪符』であると
思っていた
歴史の教科書で
そう間違って
教えられたのだから
それも仕方ないことだろうが
カトリックではなくとも
いみじくも
キリスト教を名のる
キリスト教会の
ホームページに
こんな間違いが
書かれているのは
いかがなものかと思う
それに





教皇の神格化
イエスの母マリアの神格化
免罪符とか
聖書に書かれていないことが
教えられている





と書かれているが
カトリックにおいて
教皇の神格化
イエスの母マリアの神格化
などは全くされていない
‘’イエスの母マリアの神格化‘’は
‘’神格化‘’ではなく
‘マリア崇敬‘’であろうと思うが
ルター自身も
宗教改革が起こった後も
完全なマリア崇敬者であった
ことは見逃せない事実であろう
ここで
誤解されてはならないが
ルターは
確かに宗教改革のきっかけを
作った人物ではあるが
彼が新しい宗派である
プロテスタントを
生み出したわけではなく
教会の改革や印新を
願ってはいたが
ルター自身は
新しい宗派を増設する
意志などなかったのである
ルターは
カトリックである
という自覚のもとに
その生涯を歩んだのである
‘’教皇の神格化‘’
についても
大きな間違いであり
もしあったとすれば
‘’教皇無謬説‘’
であろうと思われるが
今は形骸化している
過去のことであるから
教えられている
と現在進行形で書くのではなく
過去形にすべきであろう
現在進行形にする書き方は
今もそうなのかと
読み手に誤解を与える
そしてもうひとつ
‘’聖書以外の外典に
聖書と同等の価値を
持たせてしまっている‘’
と
‘’外典は聖書ではない‘’
と思わせる書き方をしているが
初期のプロテスタントの聖書には
外典は含まれていたし
宗教改革の火付け役となった
ルターやウィクリフの
翻訳聖書にも
コマーデルの翻訳聖書にも
トーマス・マシューの翻訳聖書にも
カトリックと同じように
初めのうちは
外典が含まれていた
また
聖書(新約聖書)を書いた
初期のキリスト教徒達が
使っていた聖書(旧約聖書)にも
外典は含まれていたのである
これを
どう説明するのだろうか








福音派(聖書根本主義)の
この教会が
『聖書のみ』の信仰の正統性を
打ち出し
カトリックの
『聖書も』を批判するのならば
なぜ
『聖書のみ』なのか
なぜ
『聖書のみ』が正しく
『聖書も』ではいけないのか
それをきちんと
ホームページ上にも
読み手に理解できるように
理路整然と
理性的に
説明すべきである
それをすることもなく
カトリックは
こんなに聖書以外にも
権威をもたせて
しまっているんですよ
とたらたら書いても
意味がないことであり
やり方が幼稚であり
フェアではない
しかも
そのカトリックについて
書かれている事柄が
上記したように
間違いだらけという
お粗末さである
これを書いた方が
牧師という教職に
ついていられる方で
ないことを願うばかり
ちなみに
なぜカトリックが
聖書のみの信仰に
基づいていないかは
大変古い本であるが
岩下壮一神父の
『カトリックの信仰』を
読めば理解できる
批判するのは結構だが
批判する前に
批判する相手を
理解しようと努めることもなく
深い考察をしようともしないで
ましてや
よくわかってもいないのに
短絡的に批判するのは
無教養というものだろう
そういう勉強不足を
棚に置いておいて
うんちくだけ偉そうに並べて
上から目線で
牧師などをしている
やからがいるから
嫌になるのである