それでも人生にイエスと言う | とりあえず今日を生き 明日もまた今日を生きよう

とりあえず今日を生き 明日もまた今日を生きよう

山の麓で 英語塾をしています。週末は東の都 東京のおうちで過ごし とりあえず今日を 明日もまた今日を生きようと ゆるりゆるりをモットーに過ごしています。


親しくさせて頂いている
あるご婦人に

ご主人を癌で亡くされ
その3年後に息子さんを癌で亡くされ

それから2年も経たぬうちに
たった一人残された
子供である娘さんを
やはり癌で亡くされた方がある

その方はクリスチャンでいられたが
その後 神も仏もないと強く思われ
棄教なさった

彼女の悲哀の深さは
他人には到底わからぬものだろうが

彼女のことを思う時
どんなにはかりしれないほどの
悲しみだったかと思う

そしてそれは
どんなに他人がそれを想像しても
そのそばには決して寄り添えない
悲しみだったのではないかと思う

ある時 
カトリックの神父様が
‘’御旨病(みむね病)‘’という言葉を使い
お話しをしてくださったことがある

‘’御旨病‘’とは
苦しみ 悲しみにあった時
なぜ 神様 どうしてですか?
と涙を流し叫びながらも

その苦しみ 悲しみを
これも神様の御旨なのだから
受け入れなければと
無理に自分に強いてしまう病らしい

しかしながら

御旨なのだから
受け入れなければと思いながらも
心ではほんとうのところ
全く受け入れられてない

むしろそう思うことによって
心の苦しみ 悲しみを
無理に封じ込めようとするがゆえに

その苦しみ 悲しみが
心の奥深いところでさらに深まり
心に病が生じる原因にもなるという

そのご婦人の娘さんの命日に
ご婦人と一緒に
お話しをさせて頂いた時

彼女はこうおっしゃられた

‘’ すべて運命だと思っているの 
そう思わないと生きていけないのよ ‘’

彼女のその言葉を聞きながら

彼女は 
彼女を襲った壮絶な悲しみを

運命であるがゆえに 
致し方ないのだと

強く自分に言い聞かせながら
受け入れてこられたのだと感じた

その受け入れていく課程においても
言葉にいいあらわせられないほどの
苦しみがあったであろうし

また その苦しみは
これからも続いて
いくものなのかもしれない

精神科医のビィクトール フランクルは 
‘’夜と霧‘’という著作の中で

‘’人は意味がない苦しみには
耐えられない‘’と書いているが

その人にとって
‘’生きる‘’意味を見いださせ
慰めになるのならば

その人にとって
それが神であろうと 
仏であろうと
運命という言葉で
いい表すものであろうと

きっとそれは
その人にとって
かけがえのない砦なのだ


あなたの人生には
素晴らしい意味がある
いかなる絶望にも希望がある

すべての人は
人生に問われているのだ
自分の人生に
責任を引き受けることにしか
その問いかけに答えることはできない

祝福しなさい
その運命を

信じなさい
その意味を

涙を恥じることはありません
その涙は
苦しむ勇気を持っていることの
証なのですから

ビィクトール フランクル